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つづき。
本丸へと続く丸土張と呼ばれる馬出し。
「二宮尊徳先生」像。
二宮尊徳は小田原藩士で後に幕臣となり、
報徳仕法と呼ばれる… 続きを読む
柳河藩初代立花宗茂の実弟立花直次は、
関ケ原の戦いで西軍でだった為、
兄の宗茂と共に改易されますが、
後に2代将軍徳川秀忠に召し抱えられ、
常陸国筑波郡柿岡5000石を拝領。
その次代立花種次は5000石加増され、
父高橋紹運… 続きを読む
世良修蔵は奥羽列藩の恨みを買い、
福島で殺害されています。
世良は薩摩藩士大山格之助と共に、
奥羽鎮撫総督府下参謀となり、
僅か570名の鎮撫総督府と仙台に向かい、
仙台藩主に無礼な態度を取って、
会津藩への出兵を命じました。
これに対して仙台藩士達は世良を憎悪し、… 続きを読む
福島は江戸時代初期は米沢藩上杉家領で、
福島城は一国一城令の例外として存続し、
上杉家の重臣本庄繁長が城代を務め、
以後も次男本庄充長、
六男本庄重長が城代となります。
しかし3代上杉綱勝が継嗣なく死去し、… 続きを読む
桑折には幕府天領として代官所が置かれ、
管轄地の司法、行政が行われた他に、
半田銀山の経営が行われていました。
桑折は米沢藩領や会津藩領であったり、
桑折藩が立藩したりと、
その領地支配が入れ替わっていましたが、
半田銀山に有望な鉱脈が発見された為、… 続きを読む
奥羽鎮撫総督府下参謀世良修蔵は、
傲慢な態度や侮蔑を繰り返し、
それに憤りを感じた仙台藩士らによって、
福島の金沢屋で殺され、
その首級は白石に運ばれています。
白石の運ばれた世良の首級は、
月心院に葬られましたが、
明治3年に現在の陣場山… 続きを読む