野辺地は北前船の寄港地であり、
尾去沢鉱山の銅の搬出港でもあり、
奥州街道の宿場町で下北半島への玄関口。
盛岡藩と石黒藩の藩境付近でもあった為、
盛岡藩は最重要地点と位置付けており、
代官所を設置したうえに、
要塞的な機能を持たせていました。
野辺地町野辺地周辺。緑の線が街道筋で、
青でぼかした辺りが宿場だった場所。… 続きを読む
「[東北地方]」カテゴリーアーカイブ
青森県上北郡 野辺地湊
野辺地湊は北前船の寄港地として栄え、
大豆や銅などの産物を積み出す船や、
大坂からの塩や生地、
日用品などを降ろす船で賑わました。
青森県北東部周辺。赤丸が野辺地湊。
陸奥湾の最奥部にあたります。
「浜町の常夜燈… 続きを読む
青森県上北郡 野辺地戦争関連史跡
盛岡藩領内に侵攻した弘前藩、黒石藩兵は、
馬門村に進入すると次々に放火を開始。
民家64戸と遍照寺が焼失してしまいます。
この馬門にあった番所も焼失しており、
虚を突かれた役人及び守備兵は、
野辺地方面に逃走しました。
「馬門御番所跡」。… 続きを読む
青森県上北郡 野辺地戦争戦死者墓所
弘前藩は奥羽越列藩同盟を脱退しますが、
同盟には特別な関係の近衛家の命令により、
仕方なく脱退してしまったが、
国内警備に専念して出兵しないと弁解。
実際には新政府軍として秋田戦争に出兵し、
久保田藩を支援しています。
久保田藩の支城大館城は、
盛岡藩の攻撃で落城寸前となり、
城代… 続きを読む
青森県上北郡 馬門宿跡
藩境塚より1km程南西に進むと馬門の集落。
この集落に馬門宿がありました。
北側には盛岡藩と黒石藩の藩境があり、
南部家と津軽家は仲が悪かった為に、
厳しい検問があったようです。
「馬門宿跡」。
ごく普通の集落といった感じで、
古い家屋もありません。
「馬門御番所跡」。
藩境を越えるにはここで手形を見せて、
先程の藩境塚を通る必要があります。
厳しく取り締まられてとされますが、
吉田松陰… 続きを読む
青森県上北郡 藩境塚
盛岡藩南部家は鎌倉時代から続く名門で、
戦国時代には現在の岩手県中北部と、
青森県全域を掌握していました。
しかしその一族である大浦為信は、
南部家に反旗を翻して独立を図り、
中央の豊臣政権に対する工作が功を奏して、
津軽氏を名乗って大名として独立。
幕府… 続きを読む
岩手県盛岡市 盛岡城跡
盛岡城は盛岡藩南部宗家20万石の居城。
南部家は南部三郎光行を祖とする名門で、
宗家三戸南部家は南北朝期より勢力を伸ばし、
戦国時代には陸奥北部最大勢力となります。
やがて天下の気勢が豊臣秀吉に傾き、
小田原征伐が行われると、
26代当主… 続きを読む