相国寺にはかつて三層宝塔があったようで、
承応2年(1653)に後水尾上皇により再建。
更に明暦2年(1656)に落慶供養が行われ、
その上層に自らの髪と歯を納めました。
後の天明の大火で宝塔は消失しますが、
その跡地には歯髪塚が建立されています。
「後水尾天皇髪歯塚」。
歯も髪も消失していると考えられますが、
塔の残骸を埋めたものと思われます。… 続きを読む
京都府京都市 相国寺/後水尾天皇髪歯塚
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相国寺にはかつて三層宝塔があったようで、
承応2年(1653)に後水尾上皇により再建。
更に明暦2年(1656)に落慶供養が行われ、
その上層に自らの髪と歯を納めました。
後の天明の大火で宝塔は消失しますが、
その跡地には歯髪塚が建立されています。
「後水尾天皇髪歯塚」。
歯も髪も消失していると考えられますが、
塔の残骸を埋めたものと思われます。… 続きを読む
相国寺は臨済宗相国寺派の大本山で、
臨済宗の京都五山第二位の大寺院。
「総門」。
相国寺通りを北上した場所にある惣門。
天明8年(1788)の天命の大火で消失し、
これは寛政9年(1797)に再建されたもの。
相国寺はこの大火で多くの堂宇を焼失。
現存する建物はの多くは、… 続きを読む
文久2年9月。
薩摩藩は相国寺より二本松の地を借り受け、
京都御所に程近いこの場所に、
新たな薩摩藩邸を造営しています。
「薩摩藩邸跡」碑。
同志社大学今出川キャンバス門前にある碑。
藩邸は5805坪(19000㎡)あったとされ、
現在の今出川キャンバスの約2/3にあたり、
9棟の建物と土蔵が建ち並んでいたとのこと。… 続きを読む
和邇宿は西近江路の宿場町。
和邇周辺は古代豪族和邇氏所縁の地で、
遣随使として知られる小野妹子は、
和邇氏の一族であったようで、
和邇の南にある小野の出身とのこと。
和邇は古くからの交通の要所で、
古代北陸道の駅宿であったとされ、
江戸期には西近江路の宿場町となり、
多くの旅人が往来したようです。… 続きを読む
木戸宿は西近江路の宿場町。
古くは比叡山の荘園木戸庄だった場所で、
中世は木戸城の城下町でもありました。
永享年間(1429-1441)に城主佐野豊賢は、
樹下神社を創建しており、
歴代城主が崇敬していましたが、
織田信長の… 続きを読む
祥瑞寺は応永年間(1394-1428)の建立で、
大徳寺の僧華叟宗曇開山の臨済宗寺院。
「山門」。
門前に[一休和尚修養地]碑があります。
一休和尚とは一休宗純の事で、
ひと昔前は[一休さん… 続きを読む
満月寺は堅田陣屋跡の南側にある寺院。
湖上に突き出る浮御堂で知られ、
[近江八景]に選ばれる景勝地です。
「満月寺」。
平安時代に天台宗の僧源信が建立し、
琵琶湖… 続きを読む