若くから羽柴秀吉に仕えた平野長泰は、
賤ヶ岳の戦いで功名を挙げ、
[賤ヶ岳の七本槍]と称えらました。
この功績で3000石の知行を与えられ、
その後の小牧長久手の戦いでも奮闘し、
5000石に加増されています。
その後は目立った功績は挙げていませんが、
関ケ原の戦いで東軍に属して所領を安堵。… 続きを読む
奈良県磯城郡 本誓寺/田原本藩平野家墓所
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若くから羽柴秀吉に仕えた平野長泰は、
賤ヶ岳の戦いで功名を挙げ、
[賤ヶ岳の七本槍]と称えらました。
この功績で3000石の知行を与えられ、
その後の小牧長久手の戦いでも奮闘し、
5000石に加増されています。
その後は目立った功績は挙げていませんが、
関ケ原の戦いで東軍に属して所領を安堵。… 続きを読む
豊臣政権の三中老であった生駒親正は、
讃岐国17万2000石を与えられて、
東西に丸亀城、高松城を築城しています。
親正は関ケ原の戦いで西軍に与しますが、
子の生駒一正が東軍として戦った為、
高松藩として生駒家はその後4代続きました。
しかし4代生駒高俊… 続きを読む
江戸時代の庶民の埋葬は、
幕府によって定めた寺請制度により、
各寺院に檀家の埋葬が行われていましたが、
明治政府は朱引内での埋葬を禁ずると共に、
[墓地取扱規則]を設定して、
東京府内9ヶ所を公共墓地を指定しました。… 続きを読む
撫川城は三村家親が永禄2年(1559)に、
宇喜多直家への備えとして築城させた城。
天正3年(1575)家親の子三村元親が、
毛利家によって滅ぼされて以降は、
境目七城のひとつとなりましたが、
城を任された井上就正は羽柴秀吉に敗れ、
撫川城は落城しました。
後に… 続きを読む
五島列島ほぼ全域を支配していた福江藩には、
富江領3000石を支配する分家がありました。
基本的に藩は万石以上の大名の支配機構を指し、
この定義で富江領3000石は藩ではありませんが、
富江五島家は大名格を与えられており、
稀に[富江藩]と呼ばれる場合もあります。
※勿論特殊な事例で足利家の… 続きを読む