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6月2日 微雨。
早天佐々木氏の旅寓から新地営所に帰る。
海面を望めば壬戍丸は竹崎沖に傾覆す。
(後日伝聞によれば壬戍丸は機関が破裂し、
航行不能となり艦長及び士官等は、
皆上陸してまた本艦を鑑みず、
夜半に潮が引いて座礁して、
傾覆したという)
昨夜殺害された中島名左衛門は長崎の人。
西洋砲術に長けた人物だったようで、
我藩の砲台築造の助言をしにきたという。
萩八丁に邸宅を賜り家族を住居していた。
昨宵殺害の景況を伝える者があり、
曰く初更の頃に2人の小壮が旅寓を叩き、
「先生は銘刀を購入したと聞きました。
見せて貰えないでしょうか?」と言い、
中島はこれを託して佩刀を示すと、
小壮がその鞘を抜いて中島の胸部に刺し、
返す刀を以って斬首したという。
また小壮者が中島を殺害した理由は、
砲台築造のことに関する事のようで、
外国船は海峡を通行する際は、
門司寄りを通行するが、
昨日の仏艦来襲では馬関側に近づいたが、
亀山及び専念寺の両台は全く当たらず、
縦横させて大敗してしまった事から、
現砲台は宜しくないとしたからという。
6月5日 晴。
早天仏国の軍艦二艘が周防灘より来襲。
我が隊は阿弥陀寺に出陣。
この日敵艦は長府の海湾に停船する。
※仏艦セミラミス号とタンクレード号。
朝四ッ時の頃になって前田村及び、
杉谷の両砲台の前に来て砲戦となった。
前田村の砲台は敵弾を無数に被り、
守兵の先鋒隊は苦戦し山内健之允が戦死。
その他にも負傷あり。
逐に砲台を破棄して退却し、
醜夷等は前田村に上陸して更に戦を挑み、
長府藩が専らこれに当たったという。
九ッ時頃御使番宮城彦輔が前田から戻り、
前田村戦況を報ず。
曰く交戦は激しくなっており、
八組頭益田豊前の一手が加勢に向かい、
益田は甲冑を着て乗馬し、
鍵幟を掲げて螺を吹き鉦鼓を鳴らし進軍。
歩兵隊がこれに続いて進んでいたが、
壇ノ浦御裳川の前後を行軍中に、
敵艦より行軍の中央を砲撃されたという。
数発の弾丸は皆山腹に着弾。
前軍は幟を伏せて長府に向いて疾走し、
後軍は阿弥陀寺町に退いた。
砲撃は激しくなって山が鳴り地が響き、
敵の砲撃で山中が火を発し、
砲煙が海陸を覆う。
敵の砲撃が止み隊は再び街道を進むが、
数丁行くと再び敵艦が砲撃す。
前軍は御裳川の近くの山峡の間道に避く。
余は前軍にあり。
徐々に山間の樵道を進むに際し、
敵の弾丸しばしば頭上を掠め、
ようやく杉谷の砲台の上に辿り着いた。
これより前田村に進むは海浜の一道のみ。
干時未ノ下刻なり前田村を望めば、
黒煙天を覆い竹木の燃焼する音囂々たり。
しかし大小の砲聲を聞こえない。
隊長等ついに来ず余輩ら同行は、
三四番隊の者わずか十数名。
※この隊長はいつもどこか行ってる・・。
海浜の本街道を阿弥陀町に帰る。
長府の海浜を顧れば薄煙の中、
敵艦はまだいる。
歩兵隊と合流。従兄の入江辰之助もいた。
辰之助は敵兵が野戦砲や、
榴散弾を撃ちながら進軍してきたと言い、
拾った榴散弾の破片を見せてくれた。
(破片は鐵にてケーヘル銃弾位なり)
日没頃に敵艦が黒煙を吐いて姫島に去り、
諸軍解散し初更の頃に新地の営所に帰る。
今夜酒肴を賜わる。
火奴箱の飯を食って満腹となり、
便々詩を吟じ俗曲を謡う
歩兵隊が集まり本日の戦況を話し合い、
色々と不満や議論を重ねたが、
隊長の臆病は衆口一致であった。
※中島の忠告どおりコテンパンの長州藩。
歩兵隊は為す術ありませんでしたが、
士気は衰えていないようです。
6月7日 晴。同隊の者七八名相誘い、
前田村の砲台で一昨日の戦闘の地を見る。
醜夷は砲床を焼き大砲に火門針を押し、
再利用できないようにしていた。
また民家四五戸を放火しており、
農具が所々に散乱して酷い有様。
薄暮の頃に帰営す。
この日余輩らが出かけている時に、
瀧彌太郎、赤根武人、入江杉蔵等が来営。
隊員に告げて曰く、
「当地で有志党を編隊するので、
志望あるものは入党を許す云々・・」。
我が隊でも営を脱し投ずるもの若干。
隊長等があれこれ尽くして阻止したが、
止める事はできなかった。
※報復攻撃を受けた長州藩は、
高杉晋作に馬関守備を命じ、
晋作は白石正一郎邸で奇兵隊を結成。
光明寺党はこれに賛同して入隊し、
瀧らはこの勧誘に訪れたようです。
6月9日 雨。薄暮に神田恒之允、
藤山吾作、増山義作と共に営所を脱し、
有志党に投ず。
この日当地出張の輜重方に至り、
親族時山清之進に有志党入りを告げる。
有志党の屯所は白石正市郎邸宅で、
高杉東行が統轄し隊員五六十名程である。
有志党に投ずるは歩兵隊のみにあらず、
萩又は徳山長府清末よりも集まっており、
白石正市郎家の者が有志党の為に奔走し、
家族婦女子に至るまで、
朝夕給事して大いに丁重であった。
竹崎町は清末領で白石正市郎は巨商で、
清末藩は士格を以ってこれを遇すという。
正市郎は年齢四十歳程の温厚篤実な人物。
平素から勤王の志に厚く、
勤王の為に財を投げ打つ事も少なからず。
弟が二人いて次男は廉作という。
また筑前平埜次郎や薩州西郷吉之助等と、
深い親交があるという。
また中山公子も春から起居し給うと聞く。
※奇兵隊に入隊。
臆病な隊長に嫌気がさしたのでしょう。
金子は光明寺党と親交していたので、
流れとしては自然な成り行きかも。
つづく。
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金子文輔の馬関攘夷従軍筆記④
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