金子文輔の馬関攘夷従軍筆記⑬

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8月6日。翳。暁天より砲戦。
 敵艦の砲撃は前日より急撃。
 我砲台に向けて全力を尽くすものの如し。
 四時頃より前田には敵兵が上陸。
 陸戦の報あり。
 我砲台の架砲は砲身が裂け、
 又は砲架より転倒し弾丸も尽きんとす。
 四ッ半時より砲台を棄てて前田に至り、
 陸戦を救援せんと壇ノ浦後の間道を経て、
 前田に至る椋野村山頂の一寺院で休憩。
 ※壇之浦砲台陥落。
  この一寺院は円陵寺辺りですが、
  円陵寺の創建は昭和の入ってから。

 京都より帰国した竹内庄兵衛
 三刀屋七郎次らも来る。
 敵兵の様子を伺う為に斥候を送ると、
 一ノ谷を隔てる山で、
 赤衣白帽の敵兵を見たという。
 ※白帽はフランス海軍水兵帽でしょう。
  赤いボンボンが特徴。

 また報があり敵は退却すると。
 この休憩所で昼食を喫し、
 一同前田陣営に投ず。
 朝からの戦が緩んだので壇ノ浦の人数は、
 暫時休憩すべしと余は浴室に至り、
 昨日からの汗を洗い服を着ていると、
 敵兵また多人数で上陸し櫻場砲台の傍、
 馬関街道、砲台に通ずる断壁道或いは、
 同所山上などの四方向より発砲し、
 櫻場砲台より来るものは、
 水田の溝を伝って我を狙撃す。
 我は角石陣営と砲台への断壁道口にあり、
 ここは時山直八が指揮する。
 ※戦闘はロンドンニュースで描かれ、
  角石陣屋を攻める様子がわかります。
  (記事はこちら)

 またこの辺りは地雷火を埋設しているが、
 その効を奏せずと云う。
 遂に自ら陣営に火を放つ。
 敵艦は大砲を放って援護しているという。
 焼玉を以って山上に砲撃している為に、
 草木が燃え広がっている。
 街中の交戦は最も烈しく、
 小銃の弾丸が地上に落ちて砂煙を上げる。
 敵味方の進退は三~四合。
 黄昏に至りて敵は退く。
 我もまた一ノ宮辺りに退く。
 ※長門一之宮は住吉神社
 途上元森熊次郎に会うが歩けないようだ。
 聞けば熱があるという。
 これを助け清水峠に至れば、
 関門を封鎖して通行できなくなっていた。
 ※元森は奇兵隊士。後の北越戦争で戦死。
 門外には三四十人が取り残されている。
 四ッ時ようやく門が開く。
 一ノ宮にて本隊所在を求めるもわからず。
 まず奇兵隊の本陣に至れば赤川総督あり。
 我隊士も十数人あり。
 共に長府藩の陣屋に至れば、
 既に荻野隊が宿陣していた。
 荻野隊は他所への移転が決まったので、
 我隊はこの陣営に入ることが出来た。
 時は九ッ半時なり。
8月7日 曇。一ノ宮宮司の宅に陣営す。
 我隊士今朝帰り来る者多し。
 昨日の戦闘で我隊二人失い、
 負傷等は四人あり。
 聞く所では夜半に在長府の先鋒隊営中で、
 互いに刺し合って死んだ者がいたという。
 未だ何の為なのかわからず。
 ※陸戦隊が上陸して攻めてきた事で、
  敗北を悟って死に急いだのでしょうか?
  潔ぎ良すぎますね。

 今朝赤川氏が奇兵隊本営に至り会議す。
 曰く接戦に決すと。
 しかし未だその配置が決まっていない。
 八ッ頃に至るも出陣の報告なし。
 また聞く所によれば前田右衛門
 井上聞多伊藤俊介等が、
 敵艦に至り交渉を行っていると。
8月8日 雲。
 朝四ッ時赤根武人藤村英熊と共に、
 日野山に登り望遠鏡で馬関湾を観れば、
 敵艦三四艘が湾にあり、
 浮船で彦島に往来するを見る。
 ※四国艦隊は先日7日に彦島を攻撃。
 昼後赤川氏は前田村に至り、
 一昨日の戦争の地を巡視。
 痕跡から敵と我等の距離は、
 十数間の間があると。
8月9日 曇。夕景に至り、
 突然奇兵隊と膺懲隊は、
 三田尻に転営すべしと命あり。
 直ぐに出発。今夜は小月に宿泊す。
 ※講和交渉の為に抗戦派を遠ざけます。
8月10日 半晴。小月を発す。
 舟木市で午昼食。
 ここは世子君の御在陣なり。
 全員本営に登れという命があったが、
 既に三田尻に向かった者数人あり。
 営に来た両隊は五六十名あるのみ。
 赤根、山縣、赤川は君前に徴され、
 その後に隊長以下は皆御庭に徴さる。
 世子君が縁側に立って御教示あり。
 曰く「連日の馬関の戦争その苦戦を察す
 また曰く、
 「赤根武人、山縣狂介、
  赤川敬三に命じた様に、
  他日の命を待つべし
」と、
 皆拝伏してすぐに去る。
 赤根、山縣、赤川の3人への御教示に曰、
京師の変に続いて外国艦の襲来で、
 前途は不容易。馬関で前田孫右衛門等が、
 外国人と交渉している。
 上手く恭順するので華浦で命を待つべし

 云々なり。
 この日赤根、山縣、赤川の三氏拝謁の際、
 山縣参軍は兵糧袋を下げていたが、
 君前に出る為にこれを外して中を見ると、
 握り飯の中に小銃の弾があったという。
 赤川氏の談話なり。
 ※わかりにくいですが流れ弾が、
  山縣の兵糧袋に当たり、
  弾が握飯の中に残っていたという事。

 薄暮に花浦の正福寺に屯陣す。
8月11日 雲。
8月12日
8月13日 半晴。
 馬関の戦争より両隊とも、
 弓隊を廃し専ら西洋風銃隊に編成し、
 御茶屋前の広場において銃陣を操練す。
 ※弓もまだ通用するでしょうけど、
  運用的に銃隊と被りますからね。


つづく。
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