金子文輔の馬関攘夷従軍筆記⑪

//////////⑪/////

元治元年甲子【文久四年八月改元】
正月 在宮市奇兵隊膺懲隊に改称。
20日 宮市を発しに帰省す。
 この日遊撃軍が上京を決める。
 膺懲隊よりは十五人を派遣する。
 他の十一隊も一隊につき十五から二十人と聞く。
 上京の人数は三百人ばかりで余も上京の人数なり。
正月26日 萩を発し今夜山口を立ち、
 小路森脇に一泊す。
正月27日 山口を出発し宮市霊台寺の陣営に帰る。
2月2日 赤川総督と山口に向かい小路森脇に止宿。
 薄暮に総督と参政前田孫右衛門を訪問。
 赤川総督が上京する為に後役の相談なり。
 結局は決まらず去る。
2月10日 晴。久坂義助が宮市に来たり。
 藤村屋に止宿す。すぐに上京すると聞く。
2月11日 晴。寺島忠三郎山口より来たり。
 藤村屋に止宿す。同氏もまた上京すると聞く。
 遊撃軍が上京する可否について、
 夜を徹して会談。秘密なので余輩はわからない。
 知るのは各隊隊長長はかりなり。
2月12日
2月13日 晴。夕景久坂、寺島両氏が宮市を発し、
 三田尻よりすぐに乗船して上京す。
2月14日 晴。夜山口より参政高杉晋作来たり、
 藤村屋に止宿。薄暮より遊撃軍各隊長と会す。
 夜を徹して議論する。遊撃軍上京の件。
2月15日 本日もまた藤村屋に高杉及び、
 遊撃隊長会議す。夕景に至りついに高杉上京に決し、
 遊撃軍よりは來島亀之進山田市之允
 北村金吾が随行し各隊より上京の事は中止となる。
※なんでそうなるのか晋作の上京。
 でも進発を止めるという目的は果たせています。

2月16日 晴。隊用を以って山口に行き、
 柊宿で休憩中、在上ノ関分屯荻野隊隊長の、
 佐々木亀之助に出会う。佐々木は上関に帰営。
2月17日 晴。山口滞在。この日世子君の和歌を
 (原本以下欠)
2月18日 晴。山口を発し薄暮に帰営す。
 昨夜赤川総督が飯田式部之助を携さえ、
 上京せんとして営所を発す。
 隊員黒神易直中島權之助山田鶴太郎等は、
 三田尻又は富海に赴きこれを抑止せんと、
 既に今朝出発せりと。
 夜半に黒神と中島らが富海港より帰営す。
 両氏の曰く富海港の大和屋政助方にて、
 赤川総督に出会い上京の再考を促す、
 佐々木亀之助も同席していたので、
 同氏も再考を促したが失敗。
 そのまま佐々木と同船して発船したと。
 但し佐々木は上関まで同行し、
 再び説いて必ず帰営させると誓っていたという。
2月23日 晴。夜に赤川総督が帰営す。
※佐々木の説得が上手く行ったようですね。
3月(原書日付を欠く)晴。國老益田右衛門介
 参政楢崎彌八郎等が来営し営中を検閲し、
 装條銃ミニエー銃及びゲベール銃の混用を禁じ、
 装條銃は武庫に還納せしむ。各隊も皆然り。
 当隊には他にフランス式野戦砲二門と臼砲二門を有す。
 後日聞く所によれば在関奇兵隊は、
 ゲベール銃を武器庫に還納し装條銃ばかりという。
※奇兵隊は全て装條銃を装備し、
 遊撃隊はゲベール銃にされたようです。

4月朔日 晴。遊撃軍は鞠府松原大演習を為す。
 余は留後にて参向せず。
 この日遊撃軍は甲乙両軍に分かれて演習す。
 力士隊は乙軍にあり善戦して甲軍の本営に迫る。
 力士隊は樫の棒を打ち振り馬上の将に迫り、
 その乗馬の殿部に一撃を加え、
 馬は進む事が出来なくなった。
 同隊の山分勝五郎がその馬上の将を見れば、
 総督の來島又兵衛であった。
 勝五郎は戦慄して土下座して謝ったが、
 來島曰く今日の事は気にする事は無いと。
 演習中汝の軍は我敵軍なり。
 敵軍の将を倒す事がどうして愉快ならずや。
 有事の際はこのようにするべしと。
 この樫の棒は七尺ばかりにて八角に削り、
 方毎に鉄条を装し尖頭の鋲を以ってす。
※来島の将の器が示された逸話ですが、
 将がやられるのは敗北を意味します。
 禁門の変でも前に出過ぎていたようですので、
 この演習の失敗を生かせなかったようです。

4月 山口の命令にて膺懲隊は、
 舟木宰判本山及び妻崎辺りの防衛の為、
 同宰判の中野村蓮行寺に転陣す。
 今朝霊台寺を発して小郡に一泊。
4月16日 晴。小郡を発し、
 夕景に舟木の大場宗之助方に到着。
4月21日 晴。中野村蓮行寺に転ず。
4月22日 晴。総督と同本山に至り、
 砲台築造の位置を選定す。
 この日外国船が多数馬関に来襲の風説あるを以って、
 馬関砲台へ気脈を通ずる為に砲台に狼煙筒を備える。
※舟木に転陣。この日の来襲はガセのようです。

つづく。
//////////⑪/////