金子文輔の馬関攘夷従軍筆記⑧

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8月17日 雲。
 前夜先鋒隊ついに来襲せず。
 今朝は必ず来るだろうと守備は厳重なり。
 昼食後に至るも来らず。
 八ッ時頃に総督世子君御旅館に謁す。
 (御旅館は竹崎町白石正市郎の宅)
 入江等が隊員を選び途上を警護せんとす。
 途中に先鋒隊の陣所あるからである。
 また先鋒隊は竹崎町に度々往来している。
 しかし総督は断って一人で営門を出る。
 入江等は数人を選んでこれを尾行させた。
 黄昏頃に高杉総督が帰営す。
 世子君の旨を伝えその厚遇を涙目で語る。
 聞けば高杉総督は世子君に謁見し、
 入江、赤根等に善後の事を託し、
 前夜の挙動を自己一身に負い、
 侍御史毛利登人を介錯として自裁し、
 これを謝罪するの決心であったという。
 世子君その自裁を許さず、
 山口の老公の命を待てと言ったと。
 ※責を一身に負うのも将の器ならば、
  それを許さないのも将の器か。
  毛利の殿様はほんとに優しいですね。

 前夜の変後この地の町人等が、
 先鋒隊の挙動を報知してくれるので、
 奇兵隊は敵情を探る労はなかったという。
 また銃隊及び砲隊にも奇兵隊に味方し、
 先鋒隊を挟撃すると請う者もいたが、
 皆これを謝辞したと聞く。
 ※意外に先鋒隊は嫌われている様子。
 夕景前霄門前に野戦砲に埋めた硝薬は、
 長く筒中にあれは火が付かないので、
 新たにもう一度これを埋装し、
 前の弾丸を調査すれば、
 一砲身に約百五拾個から三百余個。
 一砲身平均二百五十個として、
 四門で一千個。
 先鋒隊約七八十名で、
 一名に十三箇当たると云う。
 ※昨夜の自爆装置のようですが、
  そんなに上手くはいかないでしょう。

 先鋒隊はこの日交代の時期にして、
 新しい人員が既に着関し町家に止宿。
 宮城を襲撃したのは教法寺の先鋒隊で、
 奇兵隊を攻撃しようと言っても、
 新着の先鋒隊は全く応じずに、
 竹崎の世子君の御旅館を御警護している。
※そりゃそうですね。
 教法寺の先鋒隊は多人数で波多野に迫り、
 奇兵隊の無状を罰するを乞うが止められ、
 また馬関港より阿弥陀寺早船を借り、
 小郡に渡航して山口行きたいと願う。
 ついに世子君に謁し上記を願うが、
 許されずと聞く。
 また前夜半に教法寺内から叫びが聞こえ、
 門外の商家が二階に上りこれを見ると、
 その人は我首を断つべしと罵り止まず、
 先鋒隊はこれを門外に放したので、
 商人等はこれを助け住居に送ったと云う。
 その苛苦に遭しものは奇兵隊夫卒頭なり。
 この者は昨夜の変を聞いて出かけた途上、
 南部町を通行した際に先鋒隊が見つけ、
 奇兵隊印の半被をしていた為に捕らえ、
 教法寺に拉致され水を頭よりかけられた。
 夫卒は冷寒に絶えず叫んだと。
 奇兵隊小荷駄法井関綱右衛門は、
 白石正市郎の傭人(番頭)なり。
 前夜の異変前に帰宅し今朝来営すると、
 夫卒が教法寺に拉致された云々と話す。
 不卒は白石の定傭の人夫にして、
 遭難後に発熱してその生命も危しという。
 一説には昨夜奇兵隊の人夫を捕らえしは、
 先鋒隊士の従僕らの仕業で真実のようだ。
 ※この夫卒の名は奈良屋源兵衛
  その後看病の甲斐なく死亡しています。

 昨夜前田砲台より世子君が帰る際、
 殿軍の奇兵隊が壇ノ浦前を通行するとき、
 奇兵隊中槍隊の一人佐々木五右衛門が、
 先鋒隊に足部を殴られたという。
 他者もこれを見たが御供中のことなれば、
 これを咎めずして帰営。
 後に分営の者達が五右衛門に屠腹を迫る。
 先鋒隊に侮辱させられたからという。
 その議論中に教法寺襲撃の報知あり、
 その件は止めとなったと云う。
 ※落ち度が無いのに切腹は可哀想。
  取りやめになって良かったですね。
  この五右衛門は禁門の変で戦死。

 奇兵隊喫飯は前町魚屋安兵衛二階に充て、
 阿弥陀寺練塀前の間道より、
 魚屋の二階に橋を架けて往来す。
 ※何故か最後に奇兵隊の食堂を説明。
8月18日 快晴。今宵も無事なり。
 警戒は前日の如し。夕刻に報知あり。
 教法寺の先鋒隊は皆馬関を去り、
 帰萩又は山口に行ってしまったという。
 隊中は甲冑を脱いだ。
 ※藩もこのままではマズいと思ったのか、
  先鋒隊の願いを聞き入れたようです。

8月20日 快晴。本日より八幡社前にて、
 銃列操練叉前田砲台の砲術練習も始める。
8月25日 晴。
 薄暮に砲声を聞くものあり。
 田ノ浦に異変ありと営中内外は雑踏す。
 門前又は八幡社前は燎火を焚き、
 また営中武装し出陣を待った。
 山徳權之允が前田砲台より帰営し、
 田ノ浦辺りで小銃が連発する音がしたと。
 和布刈辺りに燈火が往来し尋常にあらず。
 門司浦の寺院は半鐘を連打し変を報し、
 長野熊之進ら十余人が田ノ浦に渡航。
 夜半に長野らが帰り報告して曰く、
 田ノ浦の隊員らが参謀の許可を得ず、
 込銃を放ったという。
 真相が判り武装を解く。
 ※人騒がせな。
  とはいえお咎め無しではありません。

つづく。
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