金子文輔の馬関攘夷従軍筆記⑥

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7月朔日 前田砲台の修繕及び、
 新築共に完成。
 また奇兵隊陣営を角石山陰に建築を計画。
 縄張は既に完了している。
7月3日 清末候阿弥陀寺に御来営。
 隊員に御目通り賜わる。
7月4日 隊員笹村陽五郎(長府藩士17歳)、
 隊法を犯し極楽寺で割腹して罪を謝す。
 ※軍規違反で切腹。規律を守る為に必要。
7月5日 総督の許しを得て帰省す。
 今夜吉田驛に一泊す。
7月6日 晴。薄暮に帰家。
 萩城菊ヶ浜に一大砲台が築造されていた。
 長さ一丁に至るものが八九箇所あり。
 市中の士民男女が土砂を運搬したという。
 ※武士の妻や奥女中までが参加した為、
  女台場と呼ばれたようです。

  (記事はこちら)
7月10日 晴。
 守永吉十郎と同行。萩を発す。
 ※守永は亥丸の鑑砲司令。
  後に荻野隊の総督となっています。

7月11日 申ノ刻頃に長府に到着。
 旅宿で山口より帰る白石正市郎に出会う。
 (白石は山口で本藩の士列を賜ったという)
 共に漁船を雇い薄暮に白石邸埠頭に着す。
 上陸後直ぐに総督に面会し帰営を報告。
 後でまた白石正市郎に面会し、
 筑前の平埜次郎が当家に止宿すると聞き、
 白石の紹介で平埜に面会して話し、
 新詠の和歌を聞かせて欲しいと頼むと、
 平埜氏は余の扇子に和歌一首を書す。
 その歌に曰く
 「玉敷の平安の都絶へまなくみつきの
           車はこふ世もかな

 白石と小酌し晩餐後に阿弥陀寺に帰る。
 平野国臣に面会。
  平野は白石邸に何度も宿泊しています。

7月14日 総督が来営し旗二旗に揮毫す。
 (檜絹にて巾二尺ばかり長一丈五尺許なり)
 一つは長門有志先鋒隊
 一つは長門有志奇兵隊と。
 先鋒隊の旗は寄贈すると聞く。
 ※晋作は先鋒隊の再編も命ぜられており、
  双方のトップとなっていました。

7月16日 晴。
 勅使少将正親町三条実愛卿御来関。
 御旅館は白石正市郎方なり。
 総督参謀などが参謁。
 夜に入り総督参謀等が帰営。
 勅旨及び勅使の演説を隊員に伝える。
 隊員達は雀躍欣舞す。
 ※実際には正親町三条実愛ではなく、
  正親町公董だったようです。
7月17日 晴。勅使諸砲台を巡見。
 壇ノ浦砲台より巡見し、
 各砲台五発の空砲を発砲。
 先鋒隊の守衛なる壇ノ浦砲台の上に、
 一旗の旗が西風に繽繙たるを望む。
 則ち前日我隊より寄贈する所のものなり。
 ※この時点で両隊の確執は無いようです。
 八ッ時頃に勅使は前田砲台に到着。
 海岸丁砲を5発発砲す。
 同時に長府藩の杉谷櫻場の両砲台も、
 発砲し田ノ浦砲台もこれに応ず。
 次に西洋銃陣及び射的釖槍の仕合等あり。
 操練終り隊員は皆勅使の前に進みて拝す。
 勅使曰く「本日の操練甚だ満足す。
 有志の輩の尽力は帰京の上直ぐに

 奏上すべし。
 而して外夷の掃攘は速にその効を奏へし

 と云々。
 一同拝し退き休憩す。
 休憩中勅使の警衛の各藩士等が来たり。
 総督及び参謀軍監等と会話し、
 総督の誘引にて各架砲を巡検す。
 隊員はこの日皆甲冑を捨て小袖袴となす。
 大概は白絹又は麻布袴も絹にして、
 縞絹或いは緞子等なり。
 襞積に纐纈を付けるのは一般的なり。
 小袖の背に盡忠報国
 又は赤心報国身留一剣答君恩等、
 書するものニ三あり。
 河上彌一は排花色の戦袍を着し、
 頭髪を稚子髷に結い白帯を指物とす。
 また入江杉蔵は白羽二重の胴着にて。
 背に山行婆草燕屍海行水漬屍を自書す。
 これは本日の軍装で河上と共に目立った。
 また弓隊は一同絹布にて、
 片身代りの小袖なり。
 田舎の成人式みたい。
  若者は昔からこんなもんです。
 勅使は今夜長府に御一泊と聞く。
 我隊一同夜に入り帰営す。
7月23日 晴。夕景に号砲を聞き、
 隊員一同前田砲台に出陣るが敵艦は未見。
 二更の頃長府より使者来て曰く、
薄暮に外国船が来航するを発見し、
 しばらくして艦首を転じ去ったが、

 これは幕艦で長崎に航行するものだった
 軍監参謀等が答えて曰く、
五月十日以降の外国型の日本船で、
 我馬関を通航しようとするものは、
 予め浦觸(通達)を出して通船しており、
 浦觸が無い場合は幕府軍艦でも砲撃する。
 既に五月十三日に蘭船が日本国旗を揚げ、
 通航を試みたる等あり。
 朝廷の令達があるので躊躇う事は無い

 長府の使節憮然として去る。
 夜半の頃に隊員の半数が帰営す。
7月14日 黎明に号砲を聞いて、
 叉前田に出陣。蒸気船が黒煙を吐き、
 一直線に海峡に進航し来る。
 田ノ浦砲台より砲撃すると、
 蒸気船の前に落つ。
 続いて三四発発砲すると、
 蒸気船は艦首を回し、
 姫島に向かって退くことニ三里。
 また艦首を転じて長府の海浜に沿い、
 田ノ浦の砲撃を避けて進むが、
 前田砲台も発砲。
 弾丸は蒸気船の前方百間辺りに落ちる。
 続いて空砲ニ三発を試発すれども、
 蒸気船は応じずに徐々進航して来た。
 総督が砲撃を止めさせると、
 蒸気船は砲台の全面にくるや、
 日本国旗を揚げ幕府の三葵紋旗を掲げた。
 蒸気船は船尾の国旗を二三回上下する。
 我砲台に礼を表するものなり。
 蒸気船は既に早鞆の海峡に侵入し、
 亀山砲台下に停船。
 鐵鎖を鳴らして錨を投ず。
 続いて汽笛を鳴らし轟音が海峡に響く。
 また我砲台上では隊員がこの艦を見送り、
 粛寂として声はなし。
 少時休憩し半分は帰営し、
 半分は砲台に残る。
 夕景に至り本営より一同帰営の命令。
 今宵奇兵隊より幕船に乗駕し、
 これを監視す。
 幕船は朝陽丸と称す小軍艦なり。
 我隊より乗艦の人数は富永彌兵衛(有隣)、
 山本勘助小埜村伊助葛西孫太郎
 來島小禄野村直之進今津卯三郎
 野村勘三郎金子六之進也。
 船長より幕府使節山口に赴く事を聞く。
 正史は中根市之進と称す。
 夕景吉田年麿が鎧直垂を着し幕船に訪問。
 この日萩に於いた赤川敬三冷泉清若が、
 更に奇兵隊を設立せんと聞く。
 ※朝陽丸が馬関に入港。
  これより朝陽丸事件が始まります。
  乗艦者に富永有隣も名もありますね。


つづく。
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