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長州藩士金子文輔は文久3年5月より、
馬関(赤間関)に歩兵小隊として出征し、
後に奇兵隊、膺懲隊に編入していますが、
この出征について詳細な日記を記しており、
当時の事件が知れる資料となっています。
また高杉晋作ら長州の有名人も多く登場し、
とても興味深いものとなっています。
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文久三年癸亥
5月4日 雨。
夜半支配所より歩兵第三小隊に編入し、
6日より赤間関に出張云々の令達あり。
5月5日 夜雨が降り午前降り止む。
夜また雨。
5月6日 夜雨が降る。
早朝赤間関出張の歩兵第三番小隊、
第四番小隊が金谷天満宮の社前に集合し、
四ッ時頃より三々五々群をなして発程す。
明木驛より右折して雲雀山峠に達し休憩。
休憩中雨が止む。
河原、吉部等を経て四郎ヶ原驛に一泊。
従兄入江辰之助の第四第五小隊も同行。
第一第二小隊は昨日萩城を発し、
今夜赤間関に到着の筈。
※歩兵第三小隊に配属された金子は、
赤間関出張の命を受けて出発。
四郎ヶ原驛は赤間関街道の宿場町で、
吉田松陰も宿泊しています。
山口県美祢市 四郎ヶ原宿跡
5月7日 曇。早朝四郎ヶ原驛を発す。
山中、吉田、埴生、小月、長府等を経て、
赤馬関の入口杉谷峠に達す。
休憩中に第一第二小隊が迎えに来る。
初更の頃に新地へ達す。
第三第四小隊の屯所は当地の劇場なり。
その左側の桟棚第一号室に座を占め、
河崎和太郎、教導井上宗次郎等と起居す。
この日は杉谷で親族白石季輔や、
永富小太郎等に遭遇。
皆第一小隊の人員なり。
5月8日 雨。
当地出張の武庫に至りゲベール小銃と、
弾薬袋及び弾薬具等を受領す。
※赤間関に入った金子ら第三第四小隊は、
役所のある新地の営所に入り、
武庫で武器弾薬を支給されています。
5月9日 夜に雨。
当地出張の兵数は詳しくはわからない。
伝聞するところによれば、
総奉行国司信濃及びその家臣が若干名。
八組頭益田豊前及びその家臣が若干名。
また先鋒隊約百名並びに、
歩兵八小隊(四小隊は御先手組、
四小隊は十七組)。
野戦砲隊四小隊(粟屋組など)。
また支藩長府藩と清末藩等の兵若干あり。
他に有志党約50~60名で、
久坂義助等が統轄し専念寺及び、
本営の光明寺に分屯しており、
人呼んで光明寺党と云う。
また土州山内家、因州池田家、
肥後細川家、筑前黒田家、
筑後久留米柳川、水戸徳川家等、
諸藩士数十人が応援として来ている。
(以上客兵は藩主の命令には非すと云う)。
また丙辰丸、庚申丸、癸亥丸が碇泊す。
(丙辰丸は安政三年、庚申丸は万延元年、
恵比須岬で製造。
癸亥は今年武州様濱で外国人より購買。
代価は金貨三万両なりと云う。
該艦はプロシア製と聞く。
また海岸砲塁は専念寺及び亀山八幡社、
前田村に、杉谷(長府村)等)
※赤間関の軍勢を金子が知る範囲で解説。
国司信濃は三家老のひとり。
益田豊前は三家老ではなくその分家。
光明寺党や諸藩の客士も紹介され、
注釈で藩主ノ命令ニハ非ズとのこと。
軍艦の解説もされていますが、
癸亥丸については間違い(英国製)。
午後雨に打たれて阿弥陀寺に至り、
小僧に境内などを案内される。
屏風は文治元年3月源氏艦の数百艘が、
平氏を追い散らしたる所。
また御裳川沖で二位尼が安徳帝を抱き、
艦首から海に身を投げようとする所など、
平家物語の絵図なり。
小僧は鳥毛付の竹竿で絵図を示し、
戦況を説明。
説明は平家物語を読経するようで下手。
小僧の案内で平知盛以下の墳墓を見る。
七百年前のものとは思えなかった。
金を若干与えて去り安徳帝の陵を拝す。
御裳川を探してみるが見つからず、
仕方なく現地人を雇って御裳川に至る。
現地人に案内された御裳川なるものは、
昨日通った道を横断する小川で唖然。
帰りに壇ノ浦に至り海岸砲台を見たが、
工事は終わっていないようだった。
盲目の2人がゴザの上で太鞁を打ち、
聞くところによれば官役や人夫の他、
当地近郊の人民有志達が各村町順番にて、
梅雨の中で数百人が助勢しているという。
打鞁の盲目人もその一人のようで、
数百人の人夫が砂石を運搬している。
砲台の築造は昼夜問わずと聞く。
薄暮に営所に帰る。雨は強くなっていた。
※阿弥陀寺を観光。
吉田松陰も見た源平の屏風を見学し、
安徳帝の御陵や平家の墓に参拝。
御裳川がどこかってのは下関あるある。
現在は国道下を流れていますが、
当時も唖然とする小川だったらしい。
下関市みもすそ川町 御裳川
つづく。
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金子文輔の馬関攘夷従軍筆記①
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