金子文輔の馬関攘夷従軍筆記②

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5月10日 夜小雨。
 夜半過ぎ出陣の号砲が枕上に響く。
 これは奉行所前の発砲で屯営から十数間。
 (一発目は用意。二発目は整列。
  三発目は戦地出張)
 二発目、三発目の号砲が続々と響き、
 営内は慌ただしくなる。
 各自が先を争い奉行所前に集合整列。
 司令士がまだ来ず、
 六ッ時半頃にやっと来た。
 すぐに鞁声を踏んで進軍する。
 雨に降られながら亀山砲台下に至れば、
 敵船は既に玄界灘に逃げて行ったという。
 束銃して休憩す。
 休憩中に亀山の砲台に上れば、
 光明寺党藤村英熊堀平三郎
 堀禰四郎等に会う。
 藤村の話では田ノ浦碇泊の米船に対し、
 専念寺と亀山の砲台、
 丙辰丸庚申丸が砲撃。
 敵船は数発を被弾して内海に逃げ、
 庚申丸と丙辰丸の両艦が追ったという。
 東海を見ると両艦が荒波の中で帰港。
 彼らと別れて小隊の整列する場所に帰る。
 時既に四ッ半頃。
 行軍して八ッ頃に帰営す。
 今夜は酒肴を賜わる。
 ※初の出陣は不発。
  この米艦は米国商船ペンブローク号
  光明寺党の藤村英熊は長州藩の足軽で、
  京で尊攘運動に参加していましたが、
  攘夷先鋒たらんと馬関に入り、
  光明寺党、奇兵隊幹部となりますが、
  絵堂の戦いで戦死しました。

  出陣した日は酒肴が出るようです
 本日、亀山砲台の藤村等の軍装を見るに、
 三人共に同じ服装であった。
 白麻布の鉢巻の上に陣笠を被り、
(陣笠は簫色で前部に金紋が施され、
  尖頭金銀色の八幡座があり。
  後部も八幡座の中央に釻で總角。
  赤白などなり)
 小袖は麻布の袷にして、
 茶褐色や白色の海松丸又は、
 九龍の紋があり纐纈を交互に綴付し、
 右肩の白絹の袖標(巾二寸堅一尺位)で、
 姓名を現わす。
 もまた麻布で紐下は浅黄色。
 紺下濃紐は白絹に白の糸線の露綴や纐纈。
 脚胖は紺色で同色の足袋を履いて、
 草履を履く。
 藤村は鬼丸の太刀を帯びて弓懸を付け、
 十字槍を構えて立受けに白毛あり。
 (白毛は我藩の印)。
 ※光明寺党のファッションチェック
  かなり事細かく記されています。
  彼らの服装に相当興味を持った証で、
  カッコいいと思ったのでは?

5月13日 晴。
 二更ノ頃に伝えられた話では、
 城ノ越の侠客京駒なるものが殺害され、
 その妾は髪を切られたという。
 理由は不明。
 妾は稲荷街裏町芸妓だとという。
5月15日 亀山八幡宮に参拝す。
 帰途に聞くところによれば光明寺党は、
 軍艦癸亥丸の艦首の偶像の首を斬り取り、
 耶蘇として本堂前の石段の下に置き、
 党員が出入りする際には、
 必ずこれを蹴るという。
 (これは長崎の踏み絵と一緒なり)
 光明寺に寄ってこれを蹴りたいと頼むが、
 多数の賛同を得られずに断念する。
 ※癸亥丸の艦首像を蹴っていたのは有名。
5月17日 曇。
 歩兵及び砲兵等に具足が配られる。
 付属品は瓢形草鞋二足(この草鞋は鹽漬で、
 数十年前に非常用として武器庫の貯蔵)、
 木綿の浅黄色袷の胴着及び帯外に、
 黒塗の木筒。朱塗りの兵糧籠
 歩兵隊の具足は黒塗のものと、
 黒塗りに白線のあるものとがあり、
 二小隊ずつに抽選で分配された。
 一二番小隊は白線あるものに当選し、
 三番小隊は黒塗りなり。
 砲兵の分は黒塗に朱の一〇ノ印あり。
5月23日 朝。仏の汽船周防灘より、
 馬関海峡を通航す。
 角石杉谷の両砲台(両砲台は、
 長府藩の築造にして同藩士之を守る)、
 前田及び専念寺、亀山両砲台より砲撃す。
 敵船もまた湾中船を停めて発砲、
 数十発撃たれて民家三軒に弾を被り、
 家屋の一隅を壊す。
 暫くして敵船は玄界灘に逃げた。
 この日初めて具足を着用して出陣す。
 屈伸は不自由で鎧もガチャガチャ鳴り、
 雨が袴の括りまけに溜っている。
 帰途はは晴れたが具足は炎天に焦げ、
 汗に流れて熱湯風呂に浴するようで、
 具足の革皮が蒸せて悪臭を発し、
 具足と小銃との重さで困難を増した。
 今夜もまた酒肴を賜った。
 荻野流師範守永彌右衛門が門人を率い、
 砲台を彦島に築造するというので、
 荻野隊と称すその隊には、
 友人で守永の嫡子吉十郎や、
 知人の佐々木亀之助がいたので、
 我が営所の知己友人を誘って彦島に渡り、
 数日その役を手伝った。
 砲台架砲は枕上砲という六貫目筒二挺で、
 西洋海岸砲二十四ポンド口径に似ている。
 ※この日の敵艦は仏軍艦キャンシャン号
  初めて具足を着て出陣したようで、
  不便さ、不自由さを嘆いていますが、
  その割に砲台築造に参加しています。

5月25日 晴。
 夕景に赤川敬三井関榮太郎が来営。
 前日来関し光明寺党に入ったという。
 ※赤川敬三は後に膺懲隊総督となり、
  金子はその部下となりました。
  維新後は地方行政官を歴任した後、
  明治16年に秋田県令に就任。

5月26日 雨。
 昼八ッ半時頃に号砲を聞く。
 直ぐに準備して亀山砲下に馳せ参ず。
 敵艦は蘭国汽船で玄界灘より海峡を通行。
 亀山及び専念寺の両砲台より砲撃し、
 敵船もまた発砲し周防灘に逃れたという。
 敵船は最初に日本国国旗を翻し来て、
 彦島田の首の号砲所を欺いて通過し、
 巌流島の陰で国旗を揚げ通行したらしい。
 薄暮に帰営。今夜酒肴を賜わる。
 夜半に親族白石半蔵の訃報あり。
 嫡子季輔が帰郷したいと願うが、
 軍制が許さず却下。
 余は季輔の為に政府員福原恭輔に訴え、
 福原はこれを憐れんで政府に具申し、
 夕景より帰郷を許されてすぐに出発した。
 ※敵艦は蘭軍艦メデューサ号
  歩兵隊の出番は陸戦に限るので、
  基本的には何も出来ません。
  親が死んでも帰れないのが戦陣ですが、
  具申で許されるあたりは長州藩の緩さ。


つづく。
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