金子文輔の馬関攘夷従軍筆記⑭

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9月5日 昼時に在山口の参政長嶺内蔵太より、
 奇兵隊に飛報あり。
 山口等の士族等らの間で激論が生じ、
 両君公に現政府員を退けるよう迫ったという。
 すぐに両隊より四五十人ばかり山口に赴く。
 夜に入って隊用で山口に行き小路片岡に至り、
 時山福田野村ら諸士に面会す。
 この日先鋒隊の人数が追加され、
 国老毛利登人を首領として湯田に屯営す。
 岩国公もやや先鋒隊に加担するが如し。
※俗論派の攻勢が始まります。
9月7日 藤村英熊と共に氷上山より古隈に行き、
 間道を捜索す。
 誰かが蔓草を雑木に結び目標としていた。
 途中藤村が作った今様を詠い示す。
  君(か)世(は) 我住む方は隔つとも
  思ふ心(り)あし(か)きの間近くこ(そ)ハ
  思へけれ叉醜の夷を征伐て平らけき世(に)

  な(か)らへハ 〇 〇 と二人暮さなん
 藤村また云う。
 前年京都で山縣狂介の作った今様という。
  いつわむ(か)しの國振(に)返してこ(そ)(は)
  皇の都の春の花をしも(か)けして遊布日の(あ)らめ

9月11日 奇兵隊が藩の確固不抜の英断を建白。
 山縣、福田、時山が草案し執筆は天宮新太郎等。
 隊外では井上聞多野村靖之助両氏が建白す。
9月15日 氷上より建白書の草稿を携え、
 湯田に滞在する野村靖之助の意見を求める為、
 隊員一人を連れて湯田瓦屋に赴く。
 野村が不在だったのですぐに立ち、
 小路に行こうとすると湯田往来の向こうから、
 先鋒隊士三四人が市中に向って来る。
 歩みを急にして過ぎんとすれば、
 追いかけてきて本路の岐道にて出会う。
 この内二人は肩を怒らせて追いかけてきて、
 二人が迫らんとする時に御目附引田新左衛門が、
 乗馬で湯田の方からからやって来たので、
 二人は追いかけるのを止めた。
 その中に中井榮次郎が居たのを認む。
※すんでの所でセーフ。
 中井榮次郎は俗論党椋梨藤太の息子で、
 同月25日に井上聞多を襲っています。

9月19日 三条公以下の諸公卿は、
 この日国内騒擾なるを以って芸州に赴かんとす。
 山縣、福田、赤根、野村、時山、赤川等は、
 三条公の居館に謁して芸州行の不可を論じ、
 終始皇国の為に去就を共にする事を説く。
※結局五卿の芸州行は取りやめとなりましたが、
 後に大宰府に行くことになります。

 昼四ッ時頃より夜六ッ時に至ったと云う。
9月28日 薄暮に時山直八と同行し、
 國老清水清太郎の旅館端ノ坊に至る。
 時山氏が清水及び野村靖之助に面話する為なり。
 端ノ坊に至れば清水氏は前日より帰っておらず、
 政事堂で昼夜仕事をしていると聞く。
 野村氏は一昨夜の建白を携え清水に依頼し、
 これを両君公に上奏を頼んだという。
 この建白を上奏してもらうまでは、
 清水氏の宅に居座って食を絶ち命を待つと。
 そして今夕に政事堂に出頭を命じられ、
 西御殿に召されたという。
 この日国老清水清太郎、参政山田宇右衛門の他、
 職を解かれる。これで君側に勤王派はいなくなった。
 今夜四ッ時頃赤川氏が湯田より小路片岡に帰る。
 途中の荒高辺りで白紙が散っており、
 元結及び麻裏竹履等の馬丁がそれを拾ったと聞くが、
 話はそこまでしか聞けなかった。
※なんでしょうね?
 井上聞多宅より急報あり。
 曰く「帰宅途中の荒高にて襲われた」と。
 皆は駆け付けようとするが福田良介がこれを止め、
 二三人を選んで向かわせた。
 また急報あり。
袖解橋の変
 暴漢に襲われた井上は自宅に運ばれ、
 死を悟った井上は兄に介錯を頼みます。
 しかし井上の母親がこれを止め、
 駆け付けた所郁太郎に治療されました。

 福田良介は福田侠平の事。
 曰く「麻田公輔自害す」と。
※立て続けの凶報。麻田は周布政之助の変名。
 周布は敗戦や俗論派の台頭を苦に自刃しました

 皆に指示した後に軍監書記は政事堂に至り、
 前田孫右衛門廣澤兵介大津四郎右衛門
 長峰内蔵太等ら前参政宅に二三人を派遣す。
 余は奏銃を携えて前田宅に赴く。
9月29日 薄暮の頃に密告する者あり。
 今夜半に先鋒隊が君公を擁して萩に移す云々。
 隊員達は佐々並に急行し阻止しようとするが、
 福田良介それを説得して止める。
※福田は暴挙を止める係ですね。
 功山寺挙兵でも止めに入りました。

10月朔日 早天に君公は萩城に帰る。
10月5日 世子君もまた萩に帰る。
 山口に滞在する先鋒隊も皆萩に帰る。
 両君公は萩城に帰り政事堂も萩に移る。
 鴻城(山口政事堂)はその為に寂寥を覚う。
 七月に諸隊より人選を行って京師に登り、
 事敗れて帰国した者達が萩の南園に屯集し、
 南園隊と称しているという。
※後に八幡隊と合して振武隊となる。
 奇兵隊その他の諸隊の総督軍監等は萩に出て、
 藩是挽回に尽力し他は三田尻小郡等に帰る。
 奇兵隊や膺懲隊の役付等は湯田に移転し、
 また華浦に帰陣せんと欲す。
 発足に臨み湯田の一旗亭に会食す。
 藤村英熊稚松の盆栽を携え来てこれを品評す。
 旗亭の主人この話を聞いて短冊一葉を携え来る。
 曰くこの盆栽の松は相生にして、
 五卿が湯田に御滞在中の正月七日朝、
 妻山錦小路頼徳卿の墳墓に参詣し。
 御帰り途中で三条公がこの松を御持帰りなって、
 主人に賜われたものという。
 歌に曰く、
 「時し在らは世に相生の姫小松
  君(に)ひかるるをもありなん

 藤村はたちあがってこの短冊を床上に掲く。
 三好軍太郎曰く「我々は苦しい立場に置かれたが、
 然れども他日に挽回するべきである
」と。
 そして盆栽の松を庭に移し曰く、
 「我勤王士が正気挽回できたなら、
  この松自ら繁茂すべし。
  また回復することが出来なければ、
  此松は枯株すべし
」と、
 遂にこの松を庭に植えた。
 藤村英熊が松に銘して曰く「時しの松」。
 三条公の歌の冒頭五文字からの命名。
※これは松田屋での話。
 現在もその松は残っているようです。

 薄暮の頃に皆三田尻の営に帰る。
 赤川総督は隊兵二十人程を携えて萩に赴くが、
 この日は相丁の住居に起居すという。
 余は赤川氏に遅れる事十数日にして萩に帰る。
 途中より激痛の麻疹に罹り起居の自由を得ず。
※金子は皮膚が弱いようですね

つづく。
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