金子文輔の馬関攘夷従軍筆記⑯

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正月17日 曇。傳馬所に至り人夫三人を雇い、
 昨夜書いたの書簡を絵堂口と佐々並口に持た、
 余は人夫一人を道案内として佐々並駅に向かう。
 途上先鋒隊士に遭う毎に山中に入って避け、
 これを三回位繰り返して佐々並に達す。
※三回も気が付かない間抜けな先鋒隊。
 戦時中の筈ですが・・。

 駅中の人は皆避難して村役人が二三人いるのみ。
 大庄屋佐久間なるものの家で昼飯を食べ、
 また山口の方向に進む。
 同駅御茶屋前にて騎馬の士に逢う。
 鴻城軍先鋒の隊長瀧鴻次郎なり。
※瀧彌太郎の弟か?
 曰く今朝明木発の書簡を人夫が持参し、
 書中の意を了解してここに来たと。
 萩城の動静を話しながら歩行し夏木原に達す。
 田村甚之允田中平蔵等に逢う。
 田中の尽力で俵駕籠一挺を得て山口に行き、
 鴻城軍の本陣常栄寺に至り、
 田邊嘉一郎の紹介を以って野村靖之助や、
 守清蔵の諸士に会って報告し、
 萩の事情また清末公御来訪云々を説明す。
 今夕に野村靖之助は先鋒の隊長として、
 佐々並駅に進軍せり。今夜鴻城軍に一泊す。
正月18日 早天に鴻城軍総督井上聞多来営。
 隊長等一同集合して会議し、
 清末公ならびに杉徳輔佐久間神太郎等、
 山口来訪は差支えない事を余に知らせる。
 昼八ッ時山口を発し薄暮に佐々並駅に達す。
 諸隊本陣なる御茶屋に着す。今夜はここに一泊。
 余が十七日に明木駅を発したると同時に、
 検断宮城某なる者が余を捕縛の為に尾行。
 哨兵に捕らえられて糺問されたが、
 応答の対応が不遜であった為に、
 同夜佐々並駅の橋下で斬首されたと聞く。
※誰の指図かわかりませんね。
 不遜な態度で殺されており真相は闇。

正月19日 雲。
 前夜より敵情探索に出た者の帰りを待つ。
 昼になっても報知なし。
 ある人曰く明木口は守衛が厳重であろうから、
 帰途は必ず川上口を経て萩に至るべしと。
 佐々並駅を発して川上口に向かう。
※結局探索に出た者は帰らずですが、
 待ってはいられないので出発。
 助言を得て川上口を経由することにします。

 薄暮の頃に龍造寺手前で先鋒隊士十数人に遭う。
 (先鋒隊がここに在るのは街道の一部分を壊し、
  諸隊の襲来を遮断する為の防御なり)
 過ぎ去ること数歩にして呼び止められ、
 顧みれば先鋒隊士が問うて曰く、
 「何国の人ぞ。通行の印鑑を所持するや否
 余答えて言う「清末藩なり」と。
 通行の印鑑を示し通行するが、
 すぐに先鋒隊士の二人が追ってきた。
 「尋問アリ本営に来るべし」と。
 余これについて行き龍造寺門前の旗亭にて尋問。
 清末藩人となった理由を云々質問し、
 隊士らは奥に入って余の処遇を論じているようだ。
 初更に及ぶも決定せずこれを促すこと三四回。
 ようやく三更の頃に隊士が来て曰く、
 余の所持する印鑑は大嫌疑あって、
 清末公の御陣所に行って確かめると。
 先鋒隊士五六人と御先手銃隊の者六七人が同行。
 彼らは必ず中津江の渡し場又は、
 舟中で余を斬害するだろうと推測。
 既に渡船に乗り舟は川島に達し沼田を経て、
 善福寺前よりまた堤に出て大橋を渉り、
 ついに清末公の本陣正燈院に至る。
 佐久間神太郎及び清末藩片身小次郎に面会。
 途中云々の事情を説明し、
 両士はすぐに先鋒隊士に面接す。
 片見曰く「金子生は元萩の者なりしが、
 今般の変動に付いて清末公が萩政府に乞うて、
 清末藩となす
」云々。
 先鋒隊士曰く、
 「政府が彼を清末藩となすは真に非らず。
  即刻引き渡されん
」と云々論じて止まず。
 ついに清末公拝謁までを乞う。
 公は速やかに拝謁を許して事は終了す。
 先鋒隊士すぐに辞去し、余は公に拝謁。
 使命を復命して後に酒肴を賜わる。
 既に天明ならんとす。
 佐久間と椿町芳川某なる者の家に休憩す。
※支藩とはいえ清末公は大名。
 嫌疑程度で御目通りさせろとは・・。
 それでもすぐに目通す毛利元純は出来る殿様。

正月20日 昼より清末公は山口に御出発。
 余は家に帰る。余が山口に赴いた翌日に、
 干城隊弘法寺を引き上げ、
 東光寺に転じて屯集したという。
正月21日 河原時之助谷川淵作が来る。
 東光寺屯集の干城隊に入隊を勧告す。
正月24日 薄暮に佐伯太郎左衛門が来訪。
 先鋒隊が再び明木に発して諸隊と交戦するという。
 また曰く「家に居るのは得策ではない」と。
 共に東光寺に走る。
 干城隊は今夜既に萩を去り、
 阿武郡生雲村に移転したという。
正月25日 未明に東光寺を発し生雲村に至り、
 大谷久七方に滞在する。
 両三日を以経て萩より報あり。
 曰く「すぐに萩に帰り籠城すべし」と。
 即刻萩に帰り萩城の城門を封じ洞春寺に屯集す。
 籠城中より櫻井三木三江木清次郎香川半助
 冷泉五郎、山口に至り諸隊長と協議するが、
 帰途に明木駅鳥子岩で先鋒隊に殺害される。
 江木は微傷を負い川を渡り難を逃れ、
 他の三人は皆即死す。
※この3名の殺害は後の2月11日の事です。
2月4日 軍艦二艘が萩の海に来航す。
 この夜に政府参政椋梨藤太等は萩を脱出し、
 石州に走ると伝聞す。
※椋梨ら俗論党は1月29日30日に役を解かれ、
 身の危険を察した椋梨らは小舟で萩を脱出し、
 岩国領に匿ってもらう予定でしたが、
 途中の津和野藩領で捕縛されて萩に戻され、
 後に野山獄で斬首されています。

 前政府参政廣澤兵介村田次郎三郎及び、
 小田村素太郎瀧彌太郎の四人野山獄にあり。
 余は福井道之助神田節三、他一人の三人と、
 野山獄に至り福川穉之助に干城隊の意を通す。
 四士は即出獄せり。
※この福川犀之助は野山獄の獄吏で、
 吉田松陰が入獄している際は融通を聞かせ、
 読書や講義などが出来るようにしたとされます。

 食事後に弘法寺土橋より舟を借り、
 松本の河原に至り上陸。東光寺に至る。
 東光寺には奇兵隊その他の諸隊屯集す。
 松原音三福田侠平等に出会い、
 四人を引き渡し城中に帰り復命す。
 この日東光寺には奇兵隊が屯集し、
 南明寺には御楯隊金輪寺にも諸隊が屯集し、
 また諸隊合同し六本松において大操練を行う。
5月 都濃郡徳地宰判伏野村屯集の膺懲隊に復隊。
 山代、鹿野、勝間田某に数日抑留しまた萩に帰る。
9月 御撫育方に勤仕。
 山口に至り杉助右衛門に下宿す。
※御撫育方は宝暦検地の増収分を別会計とし、
 その資金を貯蓄新田開発殖産興業などに充て、
 幕末長州藩の財力の源となった財政担当部局。
 藩より正式な役職を得て日記は終了しています。

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以上で金子文輔の馬関攘夷従軍筆記は終了。
名も知られぬ長州藩士の日記ながら、
出て来る人物は長州藩の有名人ばかり。
歴史的事件への遭遇もさることながら、
最後に重要な役割も演じており、
読み応えのある日記でした。
この金子という人物のその後はよくわからず、
維新後はどうなったのか不明です。

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