金子文輔の馬関攘夷従軍筆記⑤

////⑤///////////

6月10日 晴。英国の軍艦二艘が、
 長府湾の干珠満珠両島の間に来たり。
 停船しその艀を下ろし近辺を測量す。
 高杉東行が有志党を率いて前田村海浜に出陣。
 未ノ刻頃に福原清助が長府より来て、
 高杉に面会し談話して曰く、
 「本日長府藩香善五六と、
  同じく英艦に至り応接するところあり
」と。
 また「醜夷等すぐに開戦すべし」云々。
 福原はすぐに去る。
 申ノ刻頃に英艦二艘共に黒煙を吐き、
 姫島方向に去ったので竹崎の屯所に帰る。
 この日総督は胴巻を着て出陣。
 英艦が去った後で隊員円陣にて兵糧を食べる。
 総督が胴巻を脱ぐと胴巻裏に文字が見えたが、
 「磅磚」の二文字にて麻田参政の書だという。
 ※奇兵隊の初陣ですが不発に終わります。
  福原が興膳五六と応接したと記されますが、
  英艦に福原と行ったのは興膳昌蔵で、

  弟に興膳五六郎がいるのですが勘違いか、
  若しくは昌蔵も五六と称していたのか?
  昌蔵はこの事が原因で殺されており、
  五六郎はこの仇討ちを行っています

  (記事はこちら
  麻田参政とは周布政之助の事。
  山内容堂に暴言を吐いて謹慎となり、
  麻田公輔に改名しています。

6月11日 晴。本日有志党を奇兵隊と称す。
 総督自ら筆を揮い門前の札に隊号を書した。
 昨夜長府藩香善五六殺害に遭うと云う。
 昨日英艦で我が国情を漏らしたからという。
 また香善と同行の福原は何故か昨夜、
 馬関を去って行ったと聞く。
 ※有志党は正式に奇兵隊と称します。
  興膳の暗殺が伝えられますが、
  福原が帰ったのは何らか知っていたのか?

6月14日 晴。
 奇兵隊に加入の者は日に日に増え、
 多人数になった事を以って、
 本日阿弥陀寺に移転す。
 阿弥陀寺の玄関に隊側を掲示し曰く、
 「不拒来者不追去者犯法者罸為賊者死
 赤根幹之進(武人)の書である。
6月15日 晴。夜軍監の命にて書翰を携え、
 白石正市郎宅に至り高杉総督に呈す。
 座中には久坂義助入江九一及び、
 白石正市郎と弟の廉作がいた。
 小宴中に総督は返書を書きこれを受け取り、
 すぐに辞して去り帰営する。
 奇兵隊移転後に軍伍を編成す。
 第一伍は伍長入江杉蔵、伍尾田中稔助
 伍中は宮城正太郎田村甚之丞
 金子文之進なり。
 ※この金子文之進は筆者の金子文輔の事。
  伍というのが一つの小隊の事です。
 この日壇ノ浦の砲台を改造せる為、
 民家を壊して更に一大砲台を築造。
 奇兵隊飯田行蔵がこの役を監督す。
 また隊中より一伍一人を助手として派遣し、
 余もまたその役に加わる。
6月21日 
 吉田稔麿が京師より帰り奇兵隊で起居。
 ある日の夕方(日を失す)隊員三~五人が、
 各自硯を持って来て墨を刷り、
 吉田稔丸が九尺程の白木綿を持って来て、
 墨汁を集めて大筆二三管を束ねて、
 「天授丸」の三文字を書す。
 夜に入り隊員廿人余りを選抜し、
 直ぐに陣門を出た。
 山徳權之允もその一員であった。
 翌日黎明に皆帰営したので、
 余は密かに同行人にどこに行ったのか聞くと、
 昨夜阿弥陀寺の早船二艘で、
 豊前若松港に航行したという。
 この日幕府の蒸気船がその港に入港し、
 一昨日の朝に抜錨したらしい。
 ※この幕府の蒸気船がよくわからない。
  朝陽丸ではないようですが・・。

 この日前田村砲台を修繕し砲台を新築。
 修繕のものを「下の砲台」、
 新築を「上の台場」という。
 この台場は去る6月5日に仏軍艦来襲で皆壊。
 大砲の火門には火門針を押込まれた。
 江戸の砲は摩擦を防ぐ塁旋を採用していたが、
 萩で鋳造された砲は摩擦を防ぐ塁旋が無い。
 この火門針を抜くのに数十日を要したという。
 この砲台は飯田行蔵及び、
 芸州人の穂神輝人(奇兵隊の人員)が担当す。
 また豊前小倉藩田ノ浦にも、
 我が奇兵隊より一砲台を築造する企てがあり、
 参謀瀧彌太郎が隊員を率いて渡海した。
 この前に我が政府より使者を小倉藩に送り、
 田ノ浦及び和布刈岬に砲台を築造し、
 共に外国船を挟撃する事を勧告していたが、
 数十日後にようやく和布刈岬に砲台を築造し、
 大砲を隠す覆い屋形を建てた。
 総督の命で瀧彌太郎、赤根武人らが渡海し、
 砲台守衛の者に砲台を見せてくれと迫り、
 彼らが守衛と拒めている間に、
 同行の一~二人が屋形を覗くと、
 僅かにモルチール砲が一門あるだけであった。
 あの藩は我藩の勧告を拒み切れなかった為に、
 形ばかりの砲台を築造しただけである。
 小倉藩の如きは朝命を奉せず、
 協力して攘夷の功を奉ずる気がないので、
 我らが田ノ浦に一砲台を築造すると、
 小倉藩に告げこの企てを行ったと聞く。
 ※一応断っていたんですね。
  酷い言われ様ですが小倉藩からずれば、
  何でやらなあかんねん!
  って感じだったのでしょう。

 当港に一奇女あり。名は阿菊。年齢五十才。
 元々は筑前出身で我藩が攘夷決行するに及び、
 各所に砲台を築造していた際、
 前田、櫻場壇ノ浦彦島等で土砂を運運び、
 また再び壇ノ浦の砲台を改造する際には、
 人一倍の働きをした為に、
 ついに朱鞘の大小両刀を持たせて貰った。
 阿菊は毎日袴に朱鞘の両刀を帯して出入りし、
 後には新地政府より扶持米を給されると聞く。
 ※奇兵隊女隊士高橋菊について触れています。
  朱鞘の大小は奇兵隊の証。

6月24日 雲。長府候の砲台御巡覧あり。
 候は亀山砲台でのご休憩中に、
 我隊員をお目通り賜わった。
 此日当馬関港の中央に巨材の筏を組み、
 外国船の容易に通過せしめざるの考案あり。
 その巨材の筏は木材の両端に鉄製の釚を施し、
 鐵の鎖を以って繋ぐ。
 また当港は海潮の干満頗る急激である為、
 軍艦用の鉄製の碇を用いてこれを係留す。
 これは赤根武人が担当したが成功しなかった。
 ※そりゃ成功はしないでしょうね。

つづく。
////⑤///////////