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5月28日。世子君が御来関。
諸砲台を御巡覧。夜に酒肴が下賜された。
この日光明寺党及び諸藩客兵の過半数が、
馬関を去って京都に赴くと聞く。
何の為かはわからない。
※久坂玄瑞らは朝廷に攘夷報告を行ない、
小倉藩への協力要請を請願しています。
6月朔日。世子君が汽船壬戍丸に上駕し、
小郡まで御航海して山口に戻るので、
諸兵が早朝より南部町の海浜に出張す。
朝五ッ半頃に弾丸が頭上を飛んで行った。
この弾は亀山砲台より発射されたもので、
世子君の御乗艦の号砲であろう。
諸砲台及び軍艦より交互に発砲し、
山鳴り、海答え、天震えて、地が轟き、
馬関海峡は砲煙で真っ暗となった。
誰かが早鞆の瀬より敵船二隻来襲と叫び、
別の誰かがフランスの軍艦なりと叫ぶ。
※敵艦は米軍艦ワイオミング。
2隻は誤り。フランスでもありません。
我等は皆武具を携えていなかった為に、
各自新地の営所に帰って兵具を執え、
再び南部町の海浜に至らんとする。
途上で新地思案橋の際で世子君に迎遭。
地上に伏せて拝し(公は金塗綾檜笠を被り、
衣裳平服で従者三四騎なり)、
また疾走すると今度は中山公子に遭う。
再び伏せて拝す(公子も金塗綾檜笠を被り、
緋精好の筒袖と白精好の袴を着て草履履)。
※緊急時もファッションチェック。
市街は老幼男女が貨物を持って逃げ回り、
甚だ雑踏を極む。
余輩は阿弥陀寺下埠頭に至り、
その海面を望めば、
我が軍艦庚申丸が被弾し、
船体を傾けてしまっており、
まさに沈没するところであった。
漁船や艀船など数十艘が救援を行い、
庚申艦は沈没して帆柱だけとなった。
この時敵艦はニ艦共に部崎辺りを馳走。
司令羽仁叉左衛門を探しても見つからず、
竹崎で世子君の御旅館前に整列し休憩す。
御旅館は白石正市郎の宅なり。
八ッ半時頃に帰営の命があり即時帰営。
今夜も酒肴を賜わる。
本日敵艦は早鞆の瀬戸より来襲し、
まず庚申丸の中腹を最大の砲丸で貫通し、
(弾丸は百五十ポンド以上なるべしと云う)
更に我が汽船壬戍丸を竹崎に追撃し、
船首を回して馬関の地に沿い、
丙辰丸、癸亥丸の両艦の右舷を通船し、
小銃を左右に放って去って行ったという。
庚申丸の中腹を貫通した砲弾は、
更に南部町商家の二階の格子の桁を壊し、
そのまま街道に落ちた。
この弾丸は重量二十貫目余りにして、
妊婦四人が四斗樽に水を盛って漬し、
新地の方に持って逃げたのを見た。
※大砲の破壊力のもさることながら、
妊婦が大砲を持って逃げたのは何?
また壬戍丸は敵艦の襲撃する所となり、
小瀬戸で隠れて敵艦が去ってから
竹崎に碇泊。
休憩中壬戍丸の負傷者が上陸したと聞き、
病院に行って負傷者の景況を聞くと、
壬戍丸は敵の弾丸数十発を被った為、
水夫十三人が熱湯を浴びた。
その負傷者は全身の皮膚が剥脱し、
肉はただれ腹部の皮は捲れており、
鼠色の布を纒っているようであった。
仰向けに横たわり息をするのがやっとで、
膏薬を傘紙に擦し全身に貼られていた。
まだ三~四人は治療中なり。
後日聞く所によれば二日の夜、
山口より恩命があり、
負傷者は武士に列せられた。
この恩命は生前に聞く事ができたが、
同夜半より三日の昼頃迄に皆死亡した。
下関市吉田 東行庵/壬戌丸水夫の墓
この水夫は三田尻御船蔵付の御手船子。
※負傷者の悲惨な状況が語られています。
武士となった事を聞いて死んだ彼らは、
喜んで逝ったのでしょうか?
本日世子君は壬戍丸で御航海する予定で、
本船は装飾が施され幟旗が掲げられ、
左右の舷に紫地に白御紋暮を張っていた。
聞くところによれば壬戍丸は、
昨年冬に横浜で英国人から買ったもので、
その代価は日本金貨十五萬両にして、
通貨五十萬両ばかりなりという。
江戸湾より江戸藩邸の武具その他の貨物、
御奥向きの調度の類を積載していたが、
荷物を降ろさぬまま当港に来航し、
今回の攻撃に遭遇したのだか、
世子君が遅刻してきたことは、
不幸中の大幸であった。
もし御予定時刻に航海あらば、
船木以南又は小郡で遭遇していた筈で、
由々しき事になっていただろう。
※海峡封鎖を攻撃するのが目的なので、
遭遇しても攻撃されなかったでしょう。
薄暮に赤川敬三、井関榮太郎両子が来営。
共に思案橋上に納涼談話す。
中島名左衛門殺害されるの報があり、
下関市新地町 妙蓮寺/中島名左衛門の墓
赤川、井関両子はすぐにその営所に帰る。
※下手人は光明寺党とされていますが
2人は知らなかったのでしょうか?
彼らが知らないという事は、
組織的な犯行ではないようです。
余は帰営した後に南部町に行き、
佐々木亀之助の旅寓を訪ねた。
太田市之進及び剣客久保無二三、
齋藤新太郎の諸子に面会し、
上国の形勢を説話するを傍聴す。
今宵吉田年丸と齋藤新太郎とが、
大議論を交わしたとされ、
齋藤はその為に馬関を去るという。
初更の頃より強雨来たり。
余はここで一泊す。
※佐々木亀之助は松陰門下。
先客の3人は皆練兵館の剣客です。
吉田稔麿と言い争いをした様子ですが、
齋藤は庚申丸に乗っていたようで、
上記のように救助を受けた模様。
その事で言い争ったのかな?
それとも中島を殺したのは齋藤?
つづく。
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