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8月26日
前夜の田ノ浦無断発砲の隊士は、
断髪の上禁足となる。
従兄入江辰之助その中にあり。
※親族がいたようです。
他人事ではなくなりました。
8月29日 雲。前日山口より命あり。
宮城彦輔は自裁を賜わる。
教法寺の一件の為。
夕景に教法寺で割腹。
高杉総督及び軍監等が教法寺に至り。
介錯は総督なりと。
宮城は親族及び知人等に遺書す。
盃を挙げて飲み干して死に就いたと。
奇兵隊に寄書あり曰く、
「とに可くに死に後れぬぞ
武士の眞を盡す道にはありける
奇兵隊御若手中様 彦輔花押」
用紙は半紙堅に書す。
※教法事事件の責で自裁の命が下る。
先鋒隊は宮城を恨んでいましたし、
発端も宮城なので妥当ではありますが、
そもそも先鋒隊の逆恨みが原因です。
朝営中に行くと粛寂であった。
午飯の後に長安榮太郎が来て曰く、
「朝来欝憂に耐えず欝を散せん為に船を賃し
壬戌丸傾覆の實況を探さんとす
同行の意なきや」と、
余も同感なりとすぐに同行。
壬戌丸を発見して敵弾の跡を目撃。
艦の中央機関の辺りに二十四発の跡あり。
傾斜が甚だしく艦中は歩行できない。
※鬱憤を晴らしに壬戌丸でも見に行こう!
そんな感じでしょうか?
薄暮に帰営す。同伍中に宮城正太郎あり。
年十四才で彦輔翁の嫡子である。
遺書を読んで悲しみに暮れ、
密かに自刃を謀るが、
伍長入江杉蔵に止められ、
懇々と言い聞かせて思いとどまらせた。
※父の無念の死に息子は悲壮に暮れます。
跡を追おうとするのを止め、
父の為にも生きねばと諭す入江。
9月1日 高杉総督、入江参謀等、
山口に微せられて上途す。
宮城正太郎同行。
後日聞く所によれば老公の君側に侍すと。
※ほんと長州藩って優しいと思う。
甘えて好き勝手する藩士ばかりだけど。
9月3日 曇。隊中無事。
余この日来小瘡を病む。
許しを得て川棚又は深川辺りに湯治。
井上傭一、田中朔之進、竹内庄蔵も小瘡。
川棚又は俵山の温泉に行くという。
同行し西市で中野半左衛門宅に憩う。
竹内氏の知己で主人は不在。
その妻が酒肴を饗す。
話の中で宍戸小彌太が今朝当家を発し、
大津に赴きしと。
駕籠で俵山に赴く際に、
中野の細君が戯に曰く、
「諸君の帯刀の朱鞘を百姓らが見ると、
奇兵隊だと恐れて萎縮すると思うので、
出来れば朱鞘を隠した方が良い」と、
一笑して別れた。
※中野半左衛門は西市の大庄屋。
白石正一郎の商売仇でした。
初更に俵山に到着しまず一浴を試みる。
浴客十数人あり温泉の槽は不潔であった。
又温泉中に柄扚がニ~三本あり、
体を掻く為のものだという。
※皮膚病を患い湯治に向かう。
川棚温泉、深川温泉、俵山温泉と、
今も有名な山口の温泉が出てきました。
俵山の温泉が不潔なのは当時の事で、
勿論今は不潔ではありません。
俵山は泉質が良い事で有名ですが、
皮膚よりリュウマチに効能があります。
9月4日 雨。温泉に浴す。
ニ三回毎に浴客数人あり。
余輩が入浴すれば他の浴客は皆去る。
同行の者はこれを訝しがる。
井上曰く昨日西市より駕籠夫が、
余輩らが奇兵隊だという事を聞知し、
旅亭に告げたのであろう。
温泉も不潔なので深川に浴せんとす。
※中野の細君の言う通りでした。
9月5日 曇。俵山を発し深川に至る。
旅亭波多野に投ず。
波多野は祖父と共に三回も泊って古知也。
到着後に鍵湯に浴す。最も清潔なり。
(鍵湯は旅亭中で廻番し、
五寸程の線香の燃るの間に、
一旅亭専用として他旅亭の客が、
混浴できないというもの)
9月6日
9月7日 晴。
井上、田中、竹内は大寧寺に参拝。
9月9日 三ノ瀬へ至り陶器を見る。
今夜小郡の田邊喜一郎が来訪す。
9月11日 井上田中竹内は萩に帰る。
余は小瘡が甚だしく留まって入浴す。
9月15日 晴。昼より叔父半助君来たり。
病を見舞う。余は小瘡がさらに甚だしく、
浴室に往来するを得ないので、
風呂桶を仙崎浦に購求し温泉を汲て浴す。
9月25日 晴。
小瘡未癒も秋風の季節となり、
医師の勧告に従って昼後に深川を去り、
駕籠で仙崎浦に至り漁船を賃傭し、
萩に帰ろうとする。
二更ノ頃より開帆。
※湯本温泉の効能は神経痛、筋肉痛など。
皮膚炎は川棚温泉の方が良かったかも。
9月26日 晴。拂暁に萩濱崎に着船。
すぐに帰宅。帰萩後聞く所によれば、
赤川敬三、山田鶴太郎らが、
萩で奇兵隊を編成せんと尽力すると聞く。
そしてついに赤川、山田の尽力にて、
萩に奇兵隊編成が政府より許された。
※奇兵隊編成というか新隊の編成が正解。
金子はこの隊に入隊する事になります。
つづく。
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