高杉晋作の東帆禄②

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つづき。

万延元年4月16日から19日。
故有って船は停泊。
上陸して伊藤静斎を訪ねる。
伊藤静斎は元長州藩出身で、
南部の賊民蜂起の際、
18歳の静斎は県令某の為に、
賊民数十人を斬り、
その後に伊藤家の養子となった人物。
伊藤家は馬関の有力者であり役人でもある。
静斎もこれを務めていたが讒言で辞任。
今は幽居清貧して詩文を楽しんでいる。
しかし国事については忘れず、
慷慨は凛々として常に時勢を論じている。
静斎曰くかつて筑當候は田や山野に出て、
騎馬に乗って僅か2~3人の従者を従えた。
庭に厩を建てて自ら馬の世話をしたので、
大臣はこれを諫めたが候は笑って、
暗愚な主は籠の鳥を飼って愛でるが、
予は馬を飼って愛でている。同等ではない

と言った。これに大臣は感銘したという。
この日静斎と酒を飲んで語り合い、
船中の鬱憤を晴らした。日暮れに帰船。
馬関で詩を作る。
 海門千里与雲連 碧瓦錦楼映水鮮
 前帝幽魂何処在 渚宴煙空鎖陽天

 海門千里が雲と連なっている
 碧の瓦や錦の楼閣が水に映えて、

 鮮やかである
 前帝(安徳帝)の御霊は何処にいるのだろう
 渚の靄が空しく夕陽を閉ざしている

※伊藤静斎は本陣伊藤家の当主で、
 坂本龍馬を支援した伊藤助太夫の先代。
 吉田松陰とも交友しており、
 記載はされていませんが、

 師である松陰の話は出たでしょう。
 筑當候というのがわかりませんが、
 中華の人物でしょうか??

万延元年4月20日。
雲は厚く小雨。①馬関(赤間関)を出航。
順風ならば逆潮。順潮ならば向かい風。
終日船は揺れ暁に②三田尻港に至る。

万延元年4月21日。
早朝、三田尻の竜口港に入る。
山口県防府市 三田尻湊


4月20日から21日の行程。

万延元年4月23日。
故有って船が停っているので、
同行する平岡兵部の家を訪問。
風呂に入り晩酌。
この日は兵部の家に泊った。
※平岡兵部は後の官僚平岡通義

万延元年4月23日。
朝、平岡氏の家を出て、
西浦の医師柳多熊に訪問。
松前人鈴木織太郎の周旋に尽力した人で、
頗る奇人なり。
鈴木が西国を遊歴して防州鯖川を渡った際、
同行する松前人某が溺死してしまう。
鈴木は墓を建てる為に30余日柳家に滞在。
僕は昨年昌平黌で鈴木と親交があり、
これを聞いて柳家を訪問した。
多熊と話し昼食を食べてから去った。
※鈴木織太郎は後に正義隊を率い、
 藩内クーデターを起こし佐幕派を粛正。
 松前藩新政府恭順に導きますが、
 箱館戦争後に残忍な行為を咎められ、
 捕縛されて入牢しています。

 そのまま牢獄で発狂死したという。
 鯖川は今の佐波川の事。

万延元年4月24日。
雲天微風。①三田尻竜口港を出航。
午後雨が降続き、②野島に碇泊。
野島は三田尻から3里。

万延元年4月25日。
朝は雨。昼に晴れて風もあった。
昼に野島を発し日暮れに③室津に入る。


4月24日から4月25日の行程。

つづく。
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防府市三田尻 防府紀行①
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