山口県長門市 大寧寺墓地/児玉家墓所

大寧寺墓地長州藩重臣の墓碑のうち、
目立つものが先に紹介した寄組山内家と、
寄組児玉家のものでしょう。
※旧漢字の兒玉が正しいようですが、
 墓地表記に従い児玉と記載します。

ただ山内家は一系譜なのに対して、
児玉家は寄組に三家も存在したようで、
人物の特定は非常に困難です。

安芸児玉氏武蔵七党兒玉党を祖先とし、
鎌倉時代後期に一族が地頭職に任じられて、
安芸国内に移住して栄えた氏族。
安芸毛利氏の祖毛利時親の時代より、
毛利家に仕えた譜代家臣であり、
江戸時代には寄組に三家、
大組にも多数の支流がありました。
寄組は四郎兵衛家(経行流683石)、
三郎右衛門家(惟親流3084石)、
外記家(貞行流2243石)の三家で、
このうち三郎右衛門の家には、
毛利元就の信任を得た児玉就忠がおり、
一族中で最大の禄高を得ています。
大寧寺墓地の兒玉家の墓は、
三郎右衛門家と外記家のもの。
※不明なものを除く
※※多くの碑銘が風化で殆どが読めない為、
 碑銘ではなく被葬者名で記載します。


右から、
児玉三郎右衛門元誠」、
児玉三郎右衛門広行」、
俗名不明」、
児玉親忠室
児玉三郎右衛門就行 同室」。
18代児玉元誠、19代児玉広行
俗名不明を挟んて23代児玉親忠の室、
22代児玉就行とその室の墓。
児玉三郎右衛門家の墓碑群。
石段中間上辺りの左側にあります。


児玉三郎右衛門広遠 同室」。
三郎右衛門家21代児玉広遠夫妻の墓。


児玉淡路守元恒(右)」、
児玉元恒室(左)」。
寄組児玉児家20代児玉元恒とその室の墓。
益田家の墓碑群の近くにあります。
こちらは寄組児玉外記家。


児玉勘解由就高 同室」。
23代児玉就高とその室の墓。
こちらも寄組児玉外記家。


児玉豊前広恒 同室(左)」、
児玉帯刀恒英」。
24代児玉広恒とその室、児玉恒英の墓。
同じく寄組児玉外記家。
石段の上部右側にあります。
広恒は享保11年の唐船打払に出動し、
指揮系統の不手際で逼塞させられています。
恒英という人物についての詳細は不明。
おそらく継嗣のまま死去した人物でしょう。

※メモ:各家の系譜(太字は墓がある当主)。
 〇四郎兵衛家(経行流)
 経行ー時行ー行家ー重行ー朝行ー
 為行ー延行ー高行ー行春ー盛行ー
 宗行ー持行ー広家ー行忠ー弘家ー
 元実ー就兼ー就光ー元村ー元光ー
 元理ー就朝ー憲行ー元行ー広朝
 〇三郎右衛門家(惟親流)
 惟親ー泰親ー重蓮ー繁行ー家親ー
 親満ー光行ー家氏ー元行ー益行ー
 国行ー隆行ー家行ー就忠ー元良ー
 元兼ー元忠ー元誠広行ー広誠ー
 広遠ー就行ー親忠ー房兼ー親彛
 〇外記家(貞行流)
 貞行ー泰行ー行家ー重行ー朝行ー
 忠行ー氏家ー吉行ー幹行ー守行ー
 恒征ー頼行ー成行ー豊行ー延恒ー
 持行ー高行ー恒家ー景唯ー元恒
 元征ー就征ー就高広恒

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山口県長門市 大寧寺墓地/児玉家墓所」への6件のフィードバック

  1. 児玉 勝

    色々有難うございました。何か手掛りになる物がないか調べていきます。今後も何かあれば御教授下さい。

    返信
    1. kii 投稿作成者

      お力になれず申し訳ありません。
      当HPとしても児玉家に限らず、
      幕末期の当主は知りたいところですので、
      何か発見があれはまたブログに記載します。
      こちらこそありがとうございました。

      返信
  2. 児玉 勝

    私は広島市に在住している者で、児玉と申します。いつのことか分かりませんが、館が火事になり、家系図も消失したとの事。本家の墓石に児玉五左衛門秀幸(安政五年)ともう一基は文政二年と彫ってあり、家紋は隅切りとううちわです。とう団扇の真ん中の鏃の様な所に上下に二本線がはいています。手掛りはこれだけですが、これからどの様に調べていったら良いでしょうか?お寺に聞いても過去帳は色々理由をつけて調べられません。

    返信
    1. kii 投稿作成者

      コメントありがとうございます。
      お寺さんが教えてくれないのは困りますね。
      ならばまずは戸籍を調べるべきかと。
      ある程度は辿れる筈です。

      返信
      1. 児玉 勝

        返信有難う御座います。戸籍は明治時代からで、その前が知りたいのです。墓石に安政、文政の年代なので、それに五左衛門は通称名で児玉外記の後裔です。と書いてあるものもあります。昔、母から本家で虫干しの為か黒鎧、刀、槍もあったと聞いています。萩藩閥閲録を探して、家紋で何か分からないかと思っています。

        返信
        1. kii 投稿作成者

          萩藩閥閲録ですが享保10年(1725)のもので、
          幕末期のものは記載がありません。
          五左衛門秀幸という人物は記載がなく、
          外記家は外記広恒が当時の当主となっており、
          以降は萩藩閥閲録では追えません。
          https://access21-co.xsrv.jp/shigekikou/archives/24623
          上記の記事にも児玉外記家の墓所がありますが、
          肝心の幕末期は不明となっています。
          ちなみに萩藩閥閲録はネットで見る事が出来ます。
          国立国会図書館デジタルコレクションのHPで、
          登録を済ませれば無料で閲覧できます。
          また「萩藩諸家系譜」というものもあり、
          こちらも広恒までしか確認出来ませんが、
          https://dl.ndl.go.jp/pid/12212336/1/311
          それ以前の当主の系譜が記載されています。
          ちなみに家紋については造形が浅く、
          申し訳ありませんが詳しい事は判りません。

          五左衛門秀幸までは戸籍で確認は出来てますか?
          もしそうならば広恒から秀幸までの系譜が、
          どうにか確認できれば良いですね。

          これらは藩が自藩の藩士らを調査して、
          系図を各家に提出させたものですので、
          それ以降は公的には作成されておらず、
          廃藩置県で藩かなくなってしまった事や、
          戸籍制度か施行されたことにより、
          幕末期だけが抜け落ちました。
          系譜は家々の系図に頼らざるを得ません。
          そうなれはこれを繋ぐ手段としては、
          幕末期の手紙や公文書等で記載を見つけ出し、
          繋がりを証明する他はありません。

          返信

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