寄組山内家は元々備後の国人で、
守護大名山名氏の守護代を務めましたが、
応仁の乱以降は備後で独自の勢力を伸ばし、
毛利元就が中国地方で勢力を拡大させると、
これに従って毛利家に仕えました。
長州藩が成立した後は寄組士に属し、
領内最西の吉田、埴生5000石を与えられ、
永代家老家に次ぐ家格となっています。
大寧寺墓地にはこの山内家の墓所があり、
初代から10代までの当主が葬られました。
※多くの墓碑銘が風化で殆どが読めない為、
碑銘ではなく被葬者名で記載します。
「山内大隅守広通」。
19代(初代)当主山内広通の墓。
18代山内隆通の次男として生まれますが、
兄で継嗣だった山内元通の養子となり、
嫡孫となり隆通の死後に家督を継ぎました。
文禄の役、慶長の役で武功を挙げ、
関ヶ原の戦いでは安濃津城攻めで活躍。
毛利家が長門周防二国に減封されると、
吉田埴生周辺5000石を与えられています。
「山内治部大輔元資」。
20代(2代)山内元資の墓のようですが、
墓石は崩れ落ちてしまっています。
以下28代まで詳しい情報は無し。
「山内縫殿就通」。
21代(3代)山内就通の墓。
「山内縫殿広直 同室」。
22代(4代)山内広直とその室の墓。
右から、
「山内采女元資」「山内九郎兵衛広義」、
「山内新左衛門房通」「山内孫之丞広俊」。
27代(9代)山内元資、
24代(6代)山内広義、
26代(8代)山内房通及び山内広俊の墓。
「山内九郎兵衛就資(左)」、
「山内通遠(右)」。
25代(7代)山内就資、
28代(10代)山内通遠の墓。
通遠は奇兵隊総督山内梅三郎通恂の父。
梅三郎が5歳の頃に死去したようで、
幕末期は年若い梅三郎が当主となり、
宿老涌喜但馬が家中を盛り立てたという。
梅三郎が総督となったのは17歳で、
後に第二奇兵隊総督も兼務。
赤間関総奉行に任じられ、
奇兵隊総督を解任されるまで、
総督の務めを真剣に務めました。
この29代梅三郎通恂の墓は、
下関市吉田の常関寺あります。
■関連記事■
・山口県長門市 大寧寺
湯本温泉ある曹洞宗の大寺院。
・下関市吉田 常関寺/山内梅三郎墓所
29代梅三郎通恂の墓所。
・奇兵隊の吉田転陣
山内家の所領に奇兵隊が転陣。
・山口県長門市 大寧寺墓地/益田家墓所
大寧寺墓地にある益田家の墓碑群。
・山口県長門市 大寧寺墓地/阿川毛利家墓所
阿川毛利家の墓所があったという。
・山口県長門市 大寧寺墓地/児玉家墓所
大寧寺墓地にある寄組児玉家の墓碑群。
・山口県長門市 大寧寺墓地/寄組墓碑①
寄組堅田家、国司家、桂家の墓碑。
・山口県長門市 大寧寺墓地/寄組墓碑②
宍戸家、赤川家、乃美家、榎本家の墓碑。