古屋佐久左衛門は筑後国の庄屋の子で、
当初の名前は高松勝次。
家業を嫌い医師を目指していましたが、
後に江戸で洋学も学んでおり、
その際に外国奉行川勝広道の知遇を得て、
御家人古屋久左衛門の婿養子となり、
佐久左衛門を名乗ります。
神奈川奉行所に努めるようになると、
外国人宣教師等に英語を習い、
文久2年には奉行所の通訳を担当。
以降は要職を歴任しました。
「古屋家之墓」。
古屋佐久左衛門が合葬された累代墓。
先祖の古屋長左衛門及び12代佐久左衛門、
13代古屋康次郎以降の一族の墓です。
佐久左衛門は用兵術も英国人に学んでおり、
沼間慎次郎らと共に英国歩兵操典、
歩兵操練図解等を翻訳しており、
英語、蘭語、ロシア語等の語学の他、
漢学、蘭学、ロシア学、算術にも長け、
更に武芸も極めていたという。
幕府陸軍の操練も行っており、
諸藩士にも英国式操練を指導。
幕府崩壊後は旧幕府陸軍を率い、
新政府軍と各地で転戦しており、
後に部隊名を衝鋒隊とします。
奥羽越列藩同盟瓦解後は蝦夷へ向かい、
蝦夷共和国では歩兵頭に就任。
明治2年の箱館戦争で重傷を負い、
実弟高松凌雲の手当を受けるも死去。
家督は長男康次郎が相続しています。
墓所は谷中霊園乙2号10側。
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