県下22の招魂場のひとつ吉敷招魂場は、
吉敷毛利家家臣を招魂する為に、
慶応2年に吉敷毛利家により建立。
吉敷毛利家菩提寺玄済寺の近くの天神山に、
吉敷招魂場は建立されていますが、
元は歴代祖公を祀る宣徳社があった場所。
山口氏吉敷周辺(吉敷招魂場の場所)。
「天神山公園」。
天神山といっても小さな丘のような場所。
入口には他の招魂場と同様の鳥居があり、
現在は天神山公園として整備されています。
「招魂碑」。
石段を登った一段目の広場にあります。
この招魂碑は昭和初期に建立されたもので、
吉敷出身戦死者の名前が刻まれていますが、
支那事変などの戦死者が並ぶ中、
萩の乱、西南役の戦死者もありました。
「招魂碑」裏側。
萩之乱 陸軍一等兵卒 井上益次郎
西南役 陸軍兵卒 西島市之進・・
招魂碑の広場より一段高い場所が招魂場。
もう一段高い場所に英霊之碑があります。
[英霊之碑]は昭和期の戦死者のもの。
向かって左手に13基の招魂墓があります。
吉敷毛利家出身者と家臣のもの。
「毛利登人大江貞武霊神(右)」、
「上野五郎大江親直霊(左)」。
招魂墓の一番右側は毛利登人のもの。
毛利登人は甲子殉難十一烈士の一人で、
吉敷毛利家の諸流。
吉敷毛利家家臣ではなく大組士ですが、
吉敷毛利家一員として招魂されています。
毛利登人の隣の上野五郎という人物は、
吉敷毛利家の14代当主であった人物。
明治3年に吉敷毛利家当主になりますが、
明治7年に病を理由に家督を返上し、
吉敷毛利家から離籍しています。
後に西南戦争に参戦して戦死するのですが、
病が理由だったとは考えられません。
家督返上したいなら隠居で良い訳ですので、
並々ならぬ理由があったことが伺えますが、
ここに招魂されていることから考えると、
ケンカ別れではない事だけは伺えます。
「名和道一之墓」。
招魂墓の一群から階段を挟んで右側に、
名和道一の墓があります。
元々は服部哲次郎という吉敷毛利家家臣で、
宣徳隊を組織して禁門の変に参加。
敗れて帰郷した後は禁固となりますが、
許されて名を名和緩と改名しました。
名和緩は文字どおり[縄ゆるむ]の意味で、
なかなか洒落っ気のある人物。
維新後は新潟県大参事を経て米国留学し、
明治6年にボストンで客死しています。
「報国忠士霊神」の碑。
名和道一の墓の隣にある碑。
禁門の変で戦死した家臣を招魂したもの。
裏に刻まれる名前は35名。
「従二位勲一等男爵内海君碑」。
名和道一の墓の前方には、
内海忠勝の顕彰碑があります。
内海忠勝は吉敷毛利家家臣で、
宣徳隊に入隊して禁門の変等に参加。
家族の猛反対があったようですが、
兄の激怒や母の涙にも顧みず入隊し、
後に第五小隊司令士として、
幕長戦争にも参加しています。
維新後は長崎県令、三重、兵庫、長野、
神奈川、大阪、京都の知事を歴任しました。
貴族院議員、内務大臣等も務め、
明治38年に死去してます。
わからなかったのがこちらの墓。
石柵付きの立派な墓なのですが、
誰の墓なのかわからない。
位牌型の戒名が刻まれた墓は、
招魂場には不自然でもあります。
手がかりとしては脇にあった石。
「第七銃隊中」と刻まれている石。
良城隊第七小隊の事でしょうか?
だとしたら良城隊司令小野金吾とその妻?
いや石柵付きは家老クラス・・。
・・・謎です。
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