豊臣家は豊臣秀頼の自刃で断絶しましたが、
豊臣秀吉正室高台院の兄木下家定の家系は、
幕府より豊臣姓を名乗る事が許され、
江戸時代を通じて続いています。
家定と3人の息子は大名となりましたが、
それぞれ関ヶ原の戦いで東西に分れます。
三男木下延俊… 続きを読む
豊臣家は豊臣秀頼の自刃で断絶しましたが、
豊臣秀吉正室高台院の兄木下家定の家系は、
幕府より豊臣姓を名乗る事が許され、
江戸時代を通じて続いています。
家定と3人の息子は大名となりましたが、
それぞれ関ヶ原の戦いで東西に分れます。
三男木下延俊… 続きを読む
撫川城は三村家親が永禄2年(1559)に、
宇喜多直家への備えとして築城させた城。
天正3年(1575)家親の子三村元親が、
毛利家によって滅ぼされて以降は、
境目七城のひとつとなりましたが、
城を任された井上就正は羽柴秀吉に敗れ、
撫川城は落城しました。
後に… 続きを読む
庭瀬陣屋は庭瀬藩の藩庁で、
撫川城の二ノ丸跡に陣屋を置いたもの。
撫川城は戦国時代に三村家親が築いた城で、
当時の周辺は沼地だったようです。
三村家が滅亡した後は毛利家の出城となり、
織田家に攻められて落城していました。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの後に、
戸川達安に都宇郡や賀陽郡が与えられ、… 続きを読む
岡山城は宇喜田秀家が築城した平山城。
秀家は豊臣家五大老のひとりでしたが、
関ヶ原の戦いで西軍とした戦って改易され、
同じく関ヶ原の戦いにおいて、
寝返った小早川秀秋が岡山城に入ります。
しかし秀秋は2年後に早逝してしまい、
無嫡であった為に小早川家は断絶。
池田輝政の次男池田忠継… 続きを読む
倉敷に出張に行ってきました。
思ったより早く仕事が終わったので、
倉敷美観地区に行ってみます。
倉敷は幕府直轄地(天領)だったようで、
物流の拠点として大いに栄えていました。
現在は市の美観地区景観条例に基づいて、
当時の街並みが状態良く保存され、
天領時代の町並みを残しています。
「倉敷川畔」の街並み。
平日にもかかわらず観光客が沢山。
学生達はすでに休みだからでしょうね。
意外な事(?)に女子旅を多く見かけました。
幕末の慶応2年4月10日。
第二奇兵隊… 続きを読む