明治10年6月。
水俣の政府軍が大口へ侵攻しますが、
辺見十郎太率いる雷撃隊は、
これを迎え撃つ為に坊主石山に布陣。
6月18日に激しい戦闘が行われたようで、
雷撃隊は6月20日に撤退しています。
山之口霊苑という小さな墓地に、
雷撃隊の戦死者合葬碑があります。
「西南の役薩軍無名兵士無縁者之霊碑」。
雷撃隊の撤退後の坊主石山には… 続きを読む
鹿児島県伊佐市 薩軍無名兵士の霊碑
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明治10年6月。
水俣の政府軍が大口へ侵攻しますが、
辺見十郎太率いる雷撃隊は、
これを迎え撃つ為に坊主石山に布陣。
6月18日に激しい戦闘が行われたようで、
雷撃隊は6月20日に撤退しています。
山之口霊苑という小さな墓地に、
雷撃隊の戦死者合葬碑があります。
「西南の役薩軍無名兵士無縁者之霊碑」。
雷撃隊の撤退後の坊主石山には… 続きを読む
熊本士族池辺吉十郎は熊本隊を結成し、
西郷軍に参加して各地と転戦。
水俣から大口へ進軍する政府軍を抑える為、
辺見十郎太率いる雷神隊と共に、
人吉から大口へと移動しています。
明治10年5月4日。
水俣の政府軍… 続きを読む
北川陵墓参考地より北側に登ると、
中津大四郎の自刃の地及び墓所があります。
彼は熊本藩の出身でしたが、
薩軍の挙兵を聞いて竜口隊を組織し、
熊本鎮台の食料貯蔵庫を襲撃。
食料を持って薩軍への従軍を願い出て、
兵站護衛の任を与えられました。
後に戦況の悪化に伴い戦闘に参加しており、… 続きを読む
瓊瓊杵尊の御陵は可愛山陵と治定されますが、
男狭穂塚陵墓と北川陵墓が参考地として、
宮内庁の管轄地となっています。
瓊瓊杵尊の御陵は日本書紀によると、
[筑紫日向可愛山之山陵]となっており、
これは可愛岳… 続きを読む
明治10年8月15日。
和田越の戦いに敗れた西郷軍は、
長井村まで退却し児玉熊四郎宅に宿陣。
程近くに瓊瓊杵尊の御陵があり、
※北川陵墓参考地。
官軍が皇祖御陵に砲撃しないであろうと、
ここが選ばれたとされています。
「南州翁寓居跡」。
西郷が宿陣した児玉熊四郎宅跡で、
[… 続きを読む
江戸時代の大分市域には府内藩領の他、
熊本藩領、臼杵藩領、延岡藩領、岡藩領と、
4つの藩領と幕府領が入り混じっていました。
岡藩領は豊後(肥後)街道の今市宿付近と、… 続きを読む
毛利空桑は熊本藩の幕末期の儒者で、
熊本藩領鶴崎で私塾[知来館]を開設し、
文武両道と尊皇論を唱えました。
その門弟は890人以上であったとされ、
遠方からもその意見を問う人が絶えず、
吉田松陰や斉藤監物も空桑を訪ねています。
「… 続きを読む