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出奔した伝吉の足取りは不明です。
1854年7月(嘉永7年6月)。
香港に現れて停泊中のミシシッピ号に、
合衆国を訪問したいと願い出たという。
伝吉は乗船を許されてアメリカへ向かい、
水夫達は親しみを込めて伝助を、
ダンケッチ(Dan-Ketch)と呼びました。
アメリカに渡った後の足取りも不明で、
安政6年に英国軍艦サンプソン号に乗って、
英国付通訳としてオールコック… 続きを読む
庄内藩では幕末より釣りが盛んだったらしい。
昔から釣師の間では庄内竿は有名で、
名竿は名刀よりも価値があったとか。
庄内藩主も釣りを奨励していたようで、
釣場に行くのも鍛錬ですし、
魚との駆け引きも鍛錬であると、
武芸のひとつとしての釣道であったらしい。
そういうわけで、
釣りに行く事を[勝負に行く]と言うそうです。
魚との勝負に勝った証が魚拓であり、… 続きを読む
小倉城を自焼させ田川に退いた小倉藩。
長州藩兵が小倉城下に入ったのは次の日でした。
高杉晋作や山縣狂介も小倉入りしますが、
白石正一郎も小倉に入っております。
白石が日記に記すところによると、
小倉城下はもぬけの殻で、
盗人の類いがうろつく程度であったらしい。
長州兵が… 続きを読む
2種類ある高杉晋作の写真のひとつ。
真ん中が晋作で、
右側は伊藤俊輔(博文)。
ではこの少年は?
山田顕義とか高島某とかいわれていますが、
この少年の名は三谷国松。
晋作に憧れて付き従うようになり、
可愛がられていたようです。
国松は萩の医家村上某の息子とされ、… 続きを読む