【幕末維新の人物】」カテゴリーアーカイブ

鹿鳴館の華

幕末は遠い昔。
明治16~20年の事を鹿鳴館時代という。
欧米諸国に文明国であるとアピールする為、
政府は鹿鳴館という洋館を建てて、
迎賓や舞踏会を行った時代がありました。

洋館を造って舞踏会して文明国ですよって、
なんとも浅はかとも思えますが、
鹿鳴館政策を推進したのは井上馨でした。
散って逝った志士達がこの鹿鳴館を
草葉の陰でどう思ったのでしょうか?
高杉晋作が生きていたなら・・。… 続きを読む

らしゃめん伝吉②

/②

出奔した伝吉の足取りは不明です。

1854年7月(嘉永7年6月)。
香港に現れて停泊中のミシシッピ号に、
合衆国を訪問したいと願い出たという。
伝吉は乗船を許されてアメリカへ向かい、
水夫達は親しみを込めて伝助を、
ダンケッチ(Dan-Ketch)と呼びました。

アメリカに渡った後の足取りも不明で、
安政6年に英国軍艦サンプソン号に乗って、
英国付通訳としてオールコック続きを読む

らしゃめん伝吉①

①/

嘉永3年10月。
摂津の廻船「栄力丸」は荷物を江戸に届け、
帰路に浦賀で大豆、小麦、胡桃等を買入れ、
志摩の大王崎まで進みます。
海は夜半より雨風が激しくなり、
船は嵐に遭遇して西の方角に流されました。
このどうにもならない状況に、
船員達は船の帆柱を捨て、
髪を切って神仏に祈りました。… 続きを読む

釣りキチ直綱

庄内藩では幕末より釣りが盛んだったらしい。
昔から釣師の間では庄内竿は有名で、
名竿は名刀よりも価値があったとか。

庄内藩主も釣りを奨励していたようで、
釣場に行くのも鍛錬、魚との駆け引きも鍛錬と、
武芸のひとつとしての釣道であったらしい。
そういうわけで、
釣りに行く事を「勝負に行く」と言うそうです。
魚との勝負に勝った証が魚拓であり、
敵将の首と同様の意味が魚拓にはありました。… 続きを読む

小倉城下の烈婦 玉枝

小倉城自焼させ田川に退いた小倉藩
長州藩兵が小倉城下に入ったのは次の日でした。

高杉晋作山縣狂介も小倉入りしますが、
白石正一郎も小倉に入っております。
白石が日記に記すところによると、
小倉城下はもぬけの殻で、
盗人の類いがうろつく程度であったらしい。

長州兵が… 続きを読む