若くから羽柴秀吉に仕えた平野長泰は、
賤ヶ岳の戦いで功名を挙げ、
[賤ヶ岳の七本槍]と称えらました。
この功績で3000石の知行を与えられ、
その後の小牧長久手の戦いでも奮闘し、
5000石に加増されています。
その後は目立った功績は挙げていませんが、
関ケ原の戦いで東軍に属して所領を安堵。… 続きを読む
奈良県磯城郡 本誓寺/田原本藩平野家墓所
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若くから羽柴秀吉に仕えた平野長泰は、
賤ヶ岳の戦いで功名を挙げ、
[賤ヶ岳の七本槍]と称えらました。
この功績で3000石の知行を与えられ、
その後の小牧長久手の戦いでも奮闘し、
5000石に加増されています。
その後は目立った功績は挙げていませんが、
関ケ原の戦いで東軍に属して所領を安堵。… 続きを読む
徳川家康の異父弟松平定勝の死後、
2代将軍徳川秀忠の命によって、
定勝の次男松平定行が崇源寺を建立し、
※寺名の由来は定勝の法号崇源院殿による。
定勝の遺骸を埋葬して菩提寺とします。
後に定行は4万石加増で伊予松山藩へ移り、
桑名藩には定行の弟… 続きを読む
庄内藩酒井家の菩提寺大督寺。
酒井家次が下総国臼井に転封した際、
酒井家の菩提寺として大信寺を建立し、
高崎への酒井家移封に従って移転。
酒井忠次正室碓井姫が死去した際、
その法号に因み大督寺に改称しました。… 続きを読む
松平利長は上山藩藤井松平家の家祖で、
徳川家康の高祖父松平長親の五男でした。
三河国の碧海郡藤井村を領した為、
藤井松平家と称していたようで、
2代松平信一から家康に仕えて、
土浦藩3万5000石を与えられています。
その後3代松平信吉… 続きを読む
明治元年8月23日、
新政府軍は鶴ヶ城に迫り、
会津藩は籠城戦を決意しました。
そこで友軍の米沢藩に援軍を要請する為、
堀粂之助と吉村寅之進を米沢に派遣。
2人は9月3日に米沢に到着し、
直ちに家老竹俣久綱に面会し、… 続きを読む
大野藩藩主家の土井家の墓所は善導寺。
前回大野に行った際に訪問済みなのですが、
最近は幕末以外にも網羅するようになり、
また前回気になっていた事もあったので、
もう一度訪問する事にしました。
「善導寺」。
善導寺は永禄元年(1558)創建の寺院で、
当時は別名のお寺だったようですが、
慶長5年(1600)に結城秀康が転封した際、… 続きを読む
金戒光明寺は浄土宗開祖法然の開山で、
浄土宗の七大本山の一つ。
境内は城郭のような構造をしていた為、
京都守護職となった会津藩の本陣となり、
藩兵千余名が起宿していました。
※後に京都守護職屋敷が建設された後も、… 続きを読む