※2020/02/04 画像の一部差し換え。
崇福寺は元々大宰府にあった臨済宗寺院で、
黒田長政が関ヶ原の戦いの功績により、
筑前国52万石となった際に移転しました。
以後は福岡藩黒田家の菩提寺として、
福岡藩の庇護を受けて隆盛したようです。
廃仏毀釈運動の煽りで荒廃していたのを、
明治28年に渡辺玄外が住職となり復興。… 続きを読む
※2020/02/04 画像の一部差し換え。
崇福寺は元々大宰府にあった臨済宗寺院で、
黒田長政が関ヶ原の戦いの功績により、
筑前国52万石となった際に移転しました。
以後は福岡藩黒田家の菩提寺として、
福岡藩の庇護を受けて隆盛したようです。
廃仏毀釈運動の煽りで荒廃していたのを、
明治28年に渡辺玄外が住職となり復興。… 続きを読む
月形洗蔵は過激な勤皇思想と正義感ゆえに、
藩主に勤皇と諸藩の罪状を建白した為、
その怒りに触れてしまいます。
月形は家禄没収のうえ牢居という罰を受け、
約4年間の幽閉生活を送りました。
九州自動車道筑紫野ICの近くに、
彼が幽閉生活を送った場所があります。
「月形洗蔵幽閉の地」。
幽閉されていた農家佐伯五三郎宅は、
碑の目の前の高速道路の通る位置。
幽閉中、洗蔵は部屋の端に座って本を読み、
近所の子らに学問を教えて暮らしました。… 続きを読む
月形洗蔵は平野国臣と共に、
福岡藩尊攘志士の首領的立場でした。
薩長同盟の陰の立役者として知られ、
高杉晋作も相当に世話になっています。
福岡藩尊攘志士の活躍が無ければ、
薩長同盟の締結はあり得なかったという。
残念なことに長州藩や薩摩藩は、
藩ぐるみで国事を遂行したのですが、
福岡藩ではそうはならなかった。
藩主黒田長溥… 続きを読む