中央区の西公園に平野國臣の像があります。
西公園は荒津山一帯を公園化したもので、
江戸期には東照宮が建てられていましたが、
維新後に廃社となりました。
明治14年に荒津山公園として整備され、
明治33年に西公園と改められた後、
黒田長政の祀る光雲神社… 続きを読む
中央区の西公園に平野國臣の像があります。
西公園は荒津山一帯を公園化したもので、
江戸期には東照宮が建てられていましたが、
維新後に廃社となりました。
明治14年に荒津山公園として整備され、
明治33年に西公園と改められた後、
黒田長政の祀る光雲神社… 続きを読む
北九州市の若松区と戸畑区は、
洞海湾によって隔てられていますが、
洞海湾その名のとおり洞窟のように深い湾で、
現在は若戸大橋と若戸トンネルが通じてますが、
当時は小舟を使用するか、
大周りをするしかありませんでした。
「若戸大橋」。
昭和37年に開通した赤い吊り橋で、… 続きを読む
長州より九州に入った三条実美ら五卿は、
赤間宿に25日間滞在しています。
福岡藩家老加藤司書が出迎えたのですが、
加藤は帯刀していたようで、
滞在先に御茶屋には竹矢来が組まれており、
※囚人が逃げないようにする柵。
礼節を欠いた行為に五卿らは憤慨し、
薩摩藩に不満の手紙を出しました。… 続きを読む
吉武地区コミュニティセンターの手前に、
早川勇の顕彰碑(銅像)があります。
「維新之志士 早川勇顕彰碑」。
早川は遠賀郡の農家に生まれ、
月形洗蔵の叔父である月形春耕に学び、
福岡藩医板垣養永に医学を、
洗蔵の父月形深蔵に儒学を学びました。
江戸で… 続きを読む
所領に海岸線がある諸藩の多くが、
海側に藩庁を定めていますが、
これはとても理に適っていました。
海運という非常に迅速な交通手段が使え、
内陸の領地から米や物産を川を使って、
下流の城に運びこむ事も出来ます。
流通は財政を大きく左右しますので、
必然的に海側に藩庁が集まりました。
また防備の面でも非常に有利で、
海が巨大な堀の役目を果たしますので、
守り易いという利点もあります。
福岡城… 続きを読む
女流勤皇詩人野村望東尼は、
福岡藩の尊攘派弾圧事件乙丑の獄により、
糸島に流刑となっていたところ、
高杉晋作の指示により奇兵隊に救出され、
下関の白石正一郎宅に匿われました。
晋作を看取った後は三田尻に滞在。
戦勝祈願のため断食を行ったのが祟り、
慶応3年11月に亡くなっています。… 続きを読む
黒田家以前の筑前領主小早川秀秋の居城は、
博多湾に突き出した丘陵の名島城でした。
名島城は防御には適してはいましたが、
立地的に城下町整備の余裕が無かった為、
その後に筑前に入封した黒田長政は、
福崎に新しく居城の建設を決定します。
黒田家ゆかりの備前国福岡にちなみ、
築城の際に福崎の地名を[福岡… 続きを読む