盛岡藩」タグアーカイブ

青森県十和田市 伝法寺宿跡

伝法寺宿日宮家伝法寺館があった場所。
後に館は南部家譜代家臣津村家に譲られ、
津村家の居館となっていましたが、
江戸時代に伝法寺館は廃棄となります。
伝法寺宿はその伝法寺館の元城下町で、
館の廃棄後に奥州街道の宿場となりました。


十和田市伝法寺周辺。緑の線が街道筋で、
青でぼかした辺りが宿場だった場所。… 続きを読む

青森県三戸郡 五戸宿跡

五戸宿奥州街道の101番目の宿場町で、
古くから周辺の中心地であったとされます。
盛岡藩代官所が置かれ、
五戸通の三戸郡13村、上北郡15村の、
計1万4000石を統括していたという。
※盛岡藩では行政区域を[]と呼び、
 それぞれの通に代官所が置かれた。



五戸町市街周辺。緑の線が街道筋で、
青でぼかした辺りが宿場のあった場所。


五戸宿跡続きを読む

青森県三戸郡 南部利直墓所他

南部利直南部家26代南部信直の長男で、
父の死去に伴い家督を相続しましたが、
その翌年に関ケ原の戦いが発生した為、
慶長出羽合戦東軍として参加。
これにより10万石を安堵されました。
領内に金が産出した事で財源に恵まれ、
藩庁を三戸から盛岡に移し、
盛岡城続きを読む

青森県三戸郡 浅水宿跡

浅水宿奥州街道の100番目の宿場町で、
元々は浅水城の城下町であったとされ、
継所が設置されていたようですが、
間宿の為に本陣脇本陣は置かれず、
大名が宿泊する事はありませんでした。


五戸町浅水周辺。緑の線が街道筋で、
青でぼかした辺りが宿場のあった場所。

三戸から未舗装の道を… 続きを読む

東京都港区 金地院/七戸南部家墓所他

金地院には七戸藩南部家の墓もありますが、
東京大空襲で破壊されてしまった為か、
歴代全ては見つかりませんでした。

七戸藩南部家は麹町南部家とも呼ばれ、
元々は5000石の旗本寄合席でしたが、
盛岡藩より分地されて1万1000石となり、
これが認められて諸侯に列しています。
基本的には宗家の蔵米支給だったようで、
江戸に常駐する… 続きを読む

青森県上北郡 七戸城跡(再訪)

前回七戸城跡を訪問したのは真冬で、
※記事はこちら
膝まで積もった雪をかき分けながらの登城。
今度は雪の無い季節に再訪しました。


七戸城東門」。
国道拡幅工事で伐採した奥州松並木を使い、
平成20年に復元された東門
前回訪問時には閉じられていましたが、
今回はしっかり開いています。


東門の先。… 続きを読む