久保田藩は盛岡藩との藩境の要衝十二所に、
本格的な城郭である十二所城を築城し、
その防御拠点としていましたが、
一国一城令によって破却されています。
十二所城は館構えに造り替えられ、
十二所館として山麓に設置されており、
盛岡藩との藩境警備の役割を負って、
更に周辺の行政を担いました。
「… 続きを読む
秋田県大館市 十二所館跡
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久保田藩は盛岡藩との藩境の要衝十二所に、
本格的な城郭である十二所城を築城し、
その防御拠点としていましたが、
一国一城令によって破却されています。
十二所城は館構えに造り替えられ、
十二所館として山麓に設置されており、
盛岡藩との藩境警備の役割を負って、
更に周辺の行政を担いました。
「… 続きを読む
盛岡藩との国境に程近い十二所は、
久保田藩にとって重要な場所であり、
その防御の為に重臣茂木家が派遣され、
十二所城代としてその藩境を守りました。
「十二所城代茂木家墓所」。
茂木家の墓所は杉林の中。
墓所は市の文化財として守られており、
状態良く保たれています。
茂木家は清和源氏の流れを汲む名門。… 続きを読む
長年寺の隣の恩徳寺にも、
戊辰之役戦死者の墓があります。
恩徳寺は源義経の出陣に伴い、
平泉から馳せ参じた花輪次郎行房が、
源平合戦の屋島の戦いで討死した為、
戦場にあった阿弥陀三尊像を持ち帰り、… 続きを読む
長年寺墓地にある戊辰之役戦死者の墓。
明治元年(1868)8月9日。
奥羽越列藩同盟に離反した久保田藩に対し、
その非を正す事を名目として、
盛岡藩兵は藩境を越えて久保田藩領に侵攻。
十二所、扇田を落とした盛岡藩は、
その勢いで大館城を落城させると、
破竹の勢いで… 続きを読む
鬼玄蕃と恐れられた酒井玄蕃了恒の墓。
「故荘内藩大夫酒井君之墓」。
庄内藩第二大隊大隊長酒井玄蕃了恒の墓。
了恒は酒井吉之丞家当主酒井了明の長男で、
長沼流兵学指南の秋保政右衛門に学び、
剣術にも長けていたとされていますが、
漢詩を詠んで書を嗜んだ他、… 続きを読む
宗福寺は常陸国那珂郡小場村に建立され、
領主小場家の菩提寺となっていましたが、
佐竹家家中の領地再編で小田に移り、
後の秋田転封により大館に移転しています。
「本堂」。
現在の本堂は寛永2年(1625)の再建。… 続きを読む
大館城を落とした盛岡藩勢は、
羽州街道を南下して小繋まで進軍。
久保田藩勢は荷上場まで後退し、
米代川を挟んで両軍が睨み合いました。
やがて新政府軍の援軍として佐賀藩及び、
小城藩… 続きを読む