続き。
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九州遊学の道筋7
①12月1日。
辰時(午前8時)出発。
②茂木に到着して船を雇い、
黄昏時に天草の富岡に着く。
富岡に停泊して船中で宿泊。
③12月2日。
船を降りて江間九右衛門を訪問。
富岡の古城跡を見学(記事はこちら)。
※江間九右衛門が何者かわかりませんが、
富岡代官所の役人か何かでしょう。
古城跡とは富岡城の事で、天草の乱で攻められた城。
富岡藩主であった戸田忠昌が、
城の管理運営が領民の負担になると、
三の丸だけを陣屋としたことにより富岡城は棄城。
この棄城は良政として称賛されました。
陸行して④二重(二江)に到着。
サトウキビを栽培しており、また馬が多く見られた。
二重より口之津へ向かう船を探していると、
住民達が怪しんで集まってきた。
どこの国の者かとか、往来手形はあるのかとかを聞かれる。
※住民に怪しまれていますが、
一応松陰はれっきとした武士のはず。
相当挙動不審だったのでしょうか?
イマイチ天草に渡った理由がわかりませんので、
怪しかったといえば怪しかったのかもしれませんね。
天草は隠れキリシタンも多いらしいので、
隠密かなにかと思われたのかもしれません。
たまたま「ウエ村」へ帰る船があったのでこれに便乗し、
黄昏時に「ウエ村」に到着して、農家に宿泊。
※「ウエ村」とは島原の有江村(現有家町)か、
大江村(現有馬町乙大江)でしょうか?
どちらも考えられますが、大江村の方が近くて有力です。
⑤12月3日。
宿泊した農家の老父を雇って、原の古城を見学。
その後、島原城下へ向かう。
鉄砲町の宮川源之助を訪問し(記事はこちら)、
○○町に宿泊。
島原の国法で旅人は城中に入ることが出来ないとの事。
夜になれば地元民でも入ることはできない。
12月4日。
宮川度右衛門を訪問。
「直発砲でなければ功を成さないので、
近頃はカノン砲を造っている」という。
宿に帰ると甲州流真田派兵学者生駒勝助が訪ねてきたので、
2つの質問をした「将材を学ぶべきか?」
「弓兵はどのように用いるのか?」。
夜にも宮川邸を訪問する。
※前日の宮川源之助と宮川度右衛門は、同一人物か親子。
生駒勝助に質問した答えは記載なし。
12月5日。
豊島喜左衛門が訪問してきたので、
一緒に護国院三十番神を拝む。
豊嶋は医術も習っているとのこと。
※島原藩には、豊島喜左衛門と称した兄弟がおり、
その2人のどちらかだと思われます。
12月6日。
宮川邸を訪問。
某氏から太閤真顕記六編を借りる。
島原藩では、毎年火薬や銅鉄を囲い置いているという。
口之津千々石のあたりに台場があるが、
島原城下は早崎の瀬戸があるので、
守備を緩めているとの事。夜、豊島氏の訪問があった。
12月7日。
温泉嶽(雲仙)に登り地元の老人に道案内を頼む。
老人の話では前回の噴火は59年前で、
その時はたくさんの人々が亡くなったらしい。
麓に石を築いて囲んでいる場所があり、
老人の話によれば、来春に犬追物があるからという。
小地獄に行って温泉に浸かる。
このあたりは多く凍豆腐(高野豆腐)を作る。
往復で十里ほど歩き、宿に帰る頃には日既に暮れていた。
12月8日。
本日島原を発とうと思っていたが、
雨なので明日に伸ばす。
※天草に寄った理由は、
一揆勢を防いだ富岡城を視察するためと思われますが、
なんだか乗る船を間違えたような気もします。
島原藩士の宮川や豊島らは、
通称が同じ人物がいるため特定が困難です。
原城や雲仙への登頂に、地元の老人を案内役にしていますが、
当時は40歳でも老人ですので、山登りも可能だったのでしょう。
続く。
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