続き。
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12月9日。
島原の港の少し北にある①舟津より出航。
七里進んで肥後の②小島(尾島)に着く。
高橋町を経て③熊本に入り、
清正公の廟やヨコテ八幡を参拝。
山崎町で池部啓太を訪問するが留守だった。
宿で風呂に入るが、
衣服を置く所が奇妙な機工をしていた。
※清正公の廟とは本妙寺の浄池廟。
ヨコテ八幡とは現在の横手阿蘇神社の事。
昔、横手の五郎という怪力の若者がいて、
いつか城を取ると息巻いていましたが、
若者は清正と戦って敗れた武将の子供で、
噂を聞いた清正はその若者を殺したので、
人々が憐れみ祠を建てて祀りました。
池部啓太は熊本藩の洋式兵学家。
風呂の奇妙な機工は気になりますね。
12月10日。
池部邸を訪問して終日を過ごす。
夜、荘村右兵衛がやって来て談話。
荘村は萩に行って学びたいという。
※荘村右兵衛がどういう人物か不明。
熊本藩に荘村助右衛門という人物がおり、
日本聖公最初の受洗者となっていますが、
この右兵衛と助右衛門は同一人物か?
最低でも親族なのでしょう。
12月11日。
池部彌一郎や荘村を訪問。
宮部鼎蔵を訪ねて終日過ごす。
※宮部との初対面ですが、
これといった感想はありません。
池部彌一郎は池部啓太の子。
12月12日。
池部邸を訪問。
宮部も来て一緒に荘村邸で深夜まで語る。
帰りは月明かりで一人清正公の廟に参拝。
弟敏三郎がモノを言えるように祈る。
※松陰の弟敏三郎は聴覚障害者でした。
12月13日。
熊本を出立。池部彌一郎が見送りに来る。
熊本城は驚くほど巨大で、
人々は九州で一番だというが、
褒め過ぎではなくそのとおりだと思う。
植木宿、山鹿宿を過ぎ、④肥猪で宿をとる。
黄檗宗の義堂という僧と同宿になるが、
萩の東光寺に留学していたらしい。
※東光寺は毛利家の菩提寺で、
奇数代藩主の墓所となっています、
黄檗宗三大叢林のひとつ。
曰く長州藩で半知の御沙汰があったとの事。
本当であろうか?
この日は熱があって足にあかぎれができた。
※半知の沙汰があったのは事実。
12月14日。
熱もあかぎれも酷い状態だが推し進む。
肥後と筑後の国境を越えて原宿で馬を借り、
⑤柳川城下に辿り着いた。
福岡県柳川市 柳川城跡
寒気がして酷い状態になってしまった。
※熊本人は松陰にあっているのか、
議論が非常に益があったとしています。
後に友となる宮部にも出会いますが、
淡々とした記載しかされていません。
九州遊学の行程8
続く。
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