吉田松陰の九州遊学⑥

続き。
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嘉永3年12月1日
辰時(午前8時)に①長崎を出発。
茂木に到着して船を雇い、
黄昏時に天草の③富岡に着く。
富岡に停泊して船中で宿泊。

嘉永3年12月2日
船を降りて江間九右衛門を訪問。
富岡の古城跡を見学。
熊本県苓北町 天草代官所跡①
※江間九右衛門が何者かわかりませんが、
 富岡代官所の役人でしょう。
 古城跡とは富岡城の事で、

 天草の乱天草四郎に攻められた城。
 後に富岡藩主となった戸田忠昌が、

 城の管理運営が領民の負担になると、
 三ノ丸を陣屋として富岡城は棄城。
 この棄城は良政として称賛されました。

陸行して④二江に到着。
サトウキビを栽培しているようで、
また馬が多く見られた。
二江より口之津へ向かう船を探していると、
住民達が怪しんで集まってきた。
どこの国の者かとか、
往来手形はあるのかと聞かれる。
住民に怪しまれています
 一応松陰はれっきとした武士なのですが、
 挙動不審だったのでしょうか?

 天草に渡った理由がわかりませんので、
 怪しかったといえば怪しかったのかも?
 天草は隠れキリシタンも多いらしいので、

 隠密かと思われたのかもしれません。
偶然にもウエ村への船があったので便乗し、
黄昏時に⑤ウエ村に到着して農家に宿泊。
長崎県南島原市 大江湊
※ウエ村とは大江村と思われます。

嘉永3年12月3日
泊った農家の老父を雇って原の古城を見学。
長崎県南島原市 原城跡
その後、⑥島原城下へ。
鉄砲町の宮川源之助を訪問。
長崎県島原市 松陰来訪地と武家屋敷水路
島原の国法で旅人は城中に入れないという。
夜になれば地元民でも入ることはできない。

嘉永3年12月4日
宮川度右衛門を訪問。
直発砲でなければ功を成さないので、
 近頃はカノン砲を造っている」という。
甲州流真田派兵学者生駒勝助が訪問。
将材を学ぶべきか?
弓兵はどのように用いるのか?
という2つの質問をした。
夜にも宮川邸を訪問。
※前日の宮川源之助と宮川度右衛門は、
 同一人物か親子でしょう。
 生駒勝助に質問した答えの記載は無し。


嘉永3年12月5日
豊島喜左衛門が訪問してきたので、
一緒に護国院三十番神を拝む。
豊嶋は医術も習っているとのこと。
※島原藩には豊島喜左衛門兄弟がおり、
 その2人のどちらかだと思われます。

嘉永3年12月6日
宮川邸を訪問。
某氏から太閤真顕記六編を借りる。
藩は毎年火薬や銅鉄を囲置いているという。
口之津千々石のあたりに台場があるが、
島原城下は早崎の瀬戸があるので、
守備を緩めているとの事。
夜、豊島氏の訪問があった。

嘉永3年12月7日
温泉嶽に登り地元老人に道案内を頼む。
老人の話では前回の噴火は59年前で、
その時は沢山の人々が亡くなったらしい。
麓に石を築いて囲んでいる場所があり、
話によれば来春に犬追物があるからという。
小地獄に行って温泉に浸かる。
このあたりは多く凍豆腐(高野豆腐)を作る。
今日の往復で十里ほど歩き、
宿に帰る頃には日既に暮れていた。

嘉永3年12月8日
本日島原を発とうと思っていたが、
雨なので明日に伸ばす。
※島原の前に天草に寄った理由は、
 富岡城を見学するためと思われますが、
 乗る船を間違えただけの気もします。
 島原藩士の宮川や豊島らは、

 通称が同じ人物がいるため特定が困難。
 原城や雲仙への登頂には、

 地元の老人を案内役にしていますが、
 当時は40歳でも老人ですので、

 山登りも可能だったのでしょう。


九州遊学の行程7

続く。

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