高杉晋作ウォーク(唐戸周辺コース)のつづき
「教法寺」。
文久3年に奇兵隊は前田砲台、
撰鋒隊は壇ノ浦砲台を担当しています。
長州藩世子毛利元徳が下関に来た際、
奇兵隊、撰鋒隊の両砲台を視察。
最初に奇兵隊の前田砲台を視察しますが、
視察の時間がなくなってしまい、
撰鋒隊の視察はなくなってしまいました。
撰鋒隊士らは宮城彦輔の陰謀であるとして、
宮城を襲う勢いを示した為。
これに驚いた宮城は晋作に相談。
晋作と宮城は教法寺に行きますが、
撰鋒隊は話が通じない程怒っており、
仕方なくそのまま奇兵隊屯所に戻る。
これを聞いた奇兵隊隊士ら数十人は、
教法寺に押し寄せますが、
これを察知した撰鋒隊は、
教法寺から逃げ出しています。
しかし寝込んでいた隊士蔵田幾之進が、
1人取り残されており、
怒りに任せた奇兵隊士達は、
蔵田を惨殺してしまいます。
この事件(教法寺事件)により、
晋作は総督を罷免。
元凶であった宮城は切腹となりました。
「本行寺」。
教法寺の裏手にある本行寺には、
戦死した諸隊士の墓があります。
「戦死之塚」。
境内にある攘夷戦や小倉戦争の戦死者の墓。
奇兵隊小隊長山田鵬輔(赤坂で戦死)や、
阿部宗兵衛(戦病死)の墓もあります。
おうのの働いていた堺屋のあった辺り。
裏町と呼ばれた地域で、
稲荷町裏町の遊郭群の総称が、
稲荷町遊郭でした。
「入江和作宅跡」。
唐戸のメイン通りで面影まったく無し。
入江和作は酢の醸造業を営む豪商で、
高杉晋作の支援者でした。
野村望東尼は白石正一郎宅から移り住み、
その邸宅の豪華さに驚いたそうです。
晋作が四国に逃亡した際にも、
資金を提供しています。
「田中絹代ぶんか館」。
下関出身の大女優田中絹代の記念館。
ここで小休止。
旧逓信省下関電信局電話課庁舎。
大正末~昭和初に建てられた電話局舎は、
殆どが同様の特徴をもっていましたが、
この建物が現存する唯一の建物とのこと。
白虎隊の生き残り飯沼貞吉も働いています。
「伊藤博文・梅子夫人住居跡」。
説明版がありますが、
この位置ではないようです。
伊藤を匿ったお梅は、
父の借金のカタに身売りされて、
小梅と名乗り芸者見習いになっていました。
伊藤は身請けを望みますが、
身売り先の置屋の主人は、
本妻(入江九一の妹)と別れることを条件に、
小梅を手放すことを承諾します。
その後に住んだ住居跡という事ですね。
最後は、大国神社で解散しました。
平松さんにダッコしてもらったのですが、
おなかか空いてちょっと不機嫌。
平松さんはマニアックな話も飛び出すので、
とても面白い。
次もぜひ参加したいなと思ってます。
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