本博多町に設置されていた長崎奉行所は、
寛文3年(1663)の大火で焼失してしまった為、
東役所、西役所の2つに分けられました。
その後、東役所は立山に移転し、
本博多町には西役所のみが残され、
立山役所と西役所で奉行所が運営されます。
「長崎奉行所立山役所跡」。
立山役所はその一部が復元されており、
長崎歴史文化博物館に併設されています。
ここは立山役所の表門跡。
石垣下側の色の濃い石が当時の石垣で、
上側の灰色の石が復元されたもの。
「玄関」。
綺麗に再建された奉行所屋敷。
その玄関には鉄砲百挺、弓20張、
長柄槍50筋が常備されていたという。
こちらからは入場できません。
屋敷の西側より裏手に廻ると、
博物館の入口が現れます。
「長崎歴史文化博物館」。
奉行所内にはこちらから入場します。
ここは2階になっており、
1階でチケットを購入した後に、
もう一度2階に戻って入場。
博物館とセットで630円でした。
奉行所内。
展示スペースから復元スペースへと、
上手に繋がっていました。
御白洲では寸劇もやっているそうですが、
残念ながら休日のみの開催で、
訪問時は平日でした。
長崎奉行は遠国奉行の首座であり、
長崎の最高責任者として行政、司法を行い、
長崎会所の監督、外国との通商、
唐人屋敷や出島の所管、諸国の動静探索、
輸出品の所管、キリシタン取締り、
有事には近隣大名の指揮権も有しました。
江戸時代末期になると、
レザノフ来航、フェートン号事件、
シーボルト事件、プチャーチン来航など、
長崎奉行の手腕が重要視されるようになり、
優秀な幕臣がその任を務めています。
最後の長崎奉行は河津祐邦。
既に幕府の権威は失墜しており、
浪人達が横行する無法地帯となっていました。
更に大政奉還、王政復古の大号令、
鳥羽伏見の敗戦と次々に凶報が伝えられ、
河津は長崎からの退去を決意。
奉行所をひとつにまとめるという名目で、
西役所の荷物を立山役所に移動させ、
その騒ぎに乗じてイギリス船で長崎を脱出し、
河津は江戸に戻っています。
長崎奉行が居なくなった長崎では、
諸藩士や地役人による協議が行われ、
長崎会議所が西役所に置かれて、
組頭であった中台信太郎が長崎奉行並となり、
残務処理を終えた後に役目を解かれ、
長崎奉行所は終焉を迎えています。
その後、新政府より澤宣嘉が派遣され、
澤を総督に長崎裁判所が開かれた後、
澤を初代府知事とし長崎府が設置されました。
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