安岡浦は長府藩領の漁村だった場所で、
名前の由来は神功皇后が岡に登り、
そこで安(休)んだ事に由来します。
古来より漁業が盛んであったようで、
多くの船が浦から出漁していたとされ、
対馬や朝鮮沿岸まで行っていたという。
いつの時代からかは不明ですが、
安岡浦の女性が頭に桶を乗せて、
鮮魚やアワビ、サザエ等を売ったようで、
彼女らはカネリと呼ばれていました。
昭和30年頃迄続けられていたようですが、
「サバ買え」「タイ買え」の命令口調で、
値切っても決して応じなかったらしい。
この気位の高いところから、
平家の官女の末裔という説もあるようです。
下関市安岡周辺。
響灘に突き出た村崎ノ鼻が波除けとなり、
赤間関や長府にも近い事から、
地の理を活かして大きく栄えていたという。
ここでは安岡本町や安岡町の他、
横野町や富任町も含めて安岡とします。
「安岡湊」。
現在の安岡漁港は第2種漁港。
伝統のイカシバ漁が行われているようで、
2月から4月まで漁が行われるという。
岸壁には蛸壷も沢山並べられていました。
僅かに石垣が残っている場所もあります。
「安岡本町の街並み」。
古い建屋も残っているようですが、
その殆どはリフォームされている様子。
新築も多く空き地も少ないようです。
元治元年7月1日。
中山忠光は幕吏から逃れる為、
潜伏先の延行村から北浦方面へ移動。
その初日に一行は安岡浦へ向かい、
庄屋村田庄三郎宅で宿泊しました。
忠光一行は翌日に安岡湊から出航し、
湯玉へ向かっていますが、
この庄屋村田家の場所は不明です。
上記した様に漁業が大変盛んでしたが、
永富独嘯庵が製糖技術をもたらし、
安岡で日本初の製糖が行われています。
周辺でサトウキビ栽培がされるようになり、
良質の砂糖が大坂等に輸出されました。
しかし幕府や宗藩への届けを怠ったため、
幕府から密輸の疑いをかけられる事になり、
宝暦6年に幕府の巡見役人が検分し、
本当に製糖しているのか確認したという。
周辺は住吉神社の社領だった場所が多く、
また長門探題も富任に置かれた為か、
尊皇攘夷の気質があったようです。
長府藩領となった後もその気質は続き、
幕末には多くの有志が諸隊に参加しました。
彼らは職業別に隊を結成。
在郷武士の吾徃隊、相撲取りの盤石隊、
僧侶らの坊主隊、農民らの朝市隊等、
後に長府報国隊に組み込まれており、
小倉戦争や戊辰戦争で活躍しています。
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