山口県長門市 大寧寺墓地/寄組墓碑②

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寄組宍戸家
一門筆頭宍戸家の分家で、
四郎五郎家宮内家
四郎右衛門家権之助家の四家があり、
大寧寺墓地の墓はその一家でしょう。

林長十郎 宍戸十郎兵衛就昌 同室」。
寄組宍戸家7代宍戸就昌とその室、
就昌三男林長十郎際昌の合葬墓。


宍戸十郎兵衛昌信 同室」。
寄組宍戸家8代宍戸昌信とその妻の墓。

この昌信の墓は何故かもう一つあります。

宍戸十郎兵衛昌信」。
こちらも昌信の墓。
何故2つあるのかは不明。


宍戸主馬房純
寄組宍戸家11代宍戸房純の墓。
これらの人物に関しての情報は無し。
近いうちに図書館で調べてきます。

寄組赤川家
小早川家の庶流。
鎌倉時代に小早川忠茂が赤川姓を名乗り、
後に子孫の赤川忠政毛利時親に臣従。
毛利家の譜代家臣として代々仕えます。
戦国時代の赤川元秀尼子との戦いで活躍。
年寄衆の一人に選ばれました。

赤川十郎左衛門就政」。
寄組赤川家21代赤川就政の墓。
赤川家当主の墓碑はこの1基のみです。

寄組乃美家
乃美家も小早川家の庶流で、
小早川敬平の弟是景が乃美姓を名乗った家。
毛利元就の継室乃美の大方を輩出しており、
彼女は穂井田元清天野元政
小早川秀包等、後の支藩家や、
一門家の家祖を生んでいます。
戦国時代の当主乃美宗勝も活躍し、
江戸期には寄組二家が存在しました。

乃美五左衛門就易(右)」、
小寺鎮賢 同室(左)」。
乃美家祖と表記された乃美就易と、
御手廻組小寺鎮賢とその室の墓。
家祖となっていますが宗勝より後の人物。
分家の当主でしょうか?


左から、
乃美豊前守元宣
乃美三郎兵衛尉就貞」、
乃美就貞 室」「不明」、
乃美仁左兵衛就辰」「乃美就辰 室」。
4代乃美元宣、5代乃美就貞とその室、
不明な墓を挟んで、
6代乃美就辰とその室の墓。
それぞれ特に情報は見つかりません。

寄組榎本家
元々は大内家家臣でしたが、
毛利元就が大内家と断交した際に臣従し、
当主榎本元吉は毛利輝元の側近となり、
長州藩設立後は当職(国家老)として活躍。
嫡流の他に大組士の家があります。

榎本近江守就時 同室(右)」、
榎本八郎左衛門就全 同室(左)」。
寄組榎本家(2代)当主榎本就時とその室、
大組榎本家当主榎本就全とその室の墓。
※代数の表記が無い為元吉を初代とし、
 ( )で仮の代を入れています。

就時は元吉の次男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続。
諸奉行や当職、加判役を歴任し、
堅田就政と共に財政再建に尽力しました。
就全はその就時の次男で、
叔父榎本就行の養子となり、
大組榎本家を継いでいます。
※表記は寄組となっています。


榎本就重 同娘 同室」。
寄組榎本家(3代)榎本就重と妻娘の合葬墓。
就時の嫡男の榎本就益の子として生まれ、
就益が家督相続前に死去した為、
嫡孫となって家督を相続しています。


榎本近江元久(左)」、
榎本三郎兵衛就益 同室(右)」。
寄組榎本家14代(?)榎本元久と、
就時の嫡男榎本就益とその室の墓。
元久には14代と表記されていますが、
どこから数えたものかわかりません。
3代就重の子で4代の筈ですので、
間違って表記されたのでしょうか?
就益は就時の嫡男ですが家督相続前に死去。
その子就重が家督を継いでいます。

大寧寺墓地にはこの他にも大組士の墓や、
よくわからない人物の墓もありましたが、
とりあえず今回はこの位で終わりとします。

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