佐賀県鹿島市 泰智寺/鹿島藩鍋島家墓所①

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泰智寺は鹿島市にある曹洞宗の古刹で、
元和8年(1622)に鹿島藩初代鍋島忠茂が、
常広にあった深立寺を現在地に移したもの。
当初は忠茂正室の戒名に因み隆心寺と称し、
後に2代鍋島正茂泰智寺と改めました。
しかし正茂が後に出奔しており、
3代鍋島直朝普明寺を建立して、
新たに歴代の菩提寺としていますが、
この泰智寺にも歴代の遺髪が納められ、
鹿島藩主の第二の墓所となっています。


本堂」。
本堂は寛保2年(1742)の再建ですが、
平成12年の修繕で景観が変容したという。
普明寺の荒れた様子と比べれば、
こちらはとても綺麗ではあります。


鹿島藩鍋島家墓所」。
本堂向かって左側が墓地となっており、
一段高い山側が鍋島家墓所となっています。


得髄院殿前泉州太守
 悟艘浄頓大居士尊霊
(左)」、
佛晃院殿悾圓隆心大姉(右)」。
初代藩主鍋島忠茂と継室隆姫の墓。
唯一御霊屋が現存しています。
佐賀藩祖鍋島直茂の次男として生まれ、
朝鮮出兵等で戦功を挙げており、
関ヶ原では兄鍋島勝茂西軍に与しますが、
立花宗茂を攻めて鍋島家存続に貢献。
慶長6年(1601)に人質として江戸に赴き、
徳川秀忠の近習として寵愛されました。
その後に中風を患って帰国を許され、
蓮池で養生していますが、
秀忠と近しい関係であった事から、
幕府との交渉役として重んじられて、
佐賀藩から2万石を分知され鹿島藩を立藩。
※幕府に与えられた5千石と合わせ、
 2万5千石であった。

大坂の陣には病身を押して参戦し、
秀忠に激賞されていますが、
その後に病が悪化したようです。
寛永元年(1624)、死去。

2代正茂は父の死後に跡を継ぎますが、
いつまでも継嗣に恵まれなかった為に、
宗家に直朝を養子とするよう勧められます。
正茂はこれを良しとせずに拒否した為、
宗家は隠居を迫るなどの圧力を掛け、
これに正茂は幕府に訴えるなど対抗。
関係は修復不可能な程に悪化してしまい、
最終的に正茂は出奔してしまいます。
※正茂は後に幕府に召し抱えられ、
 旗本鍋島家を興しました。


普明寺殿前泉州太守
 高岳絡龍大居士
(右)」、
壽性院殿圓威實相大姉(左)」。
3代藩主鍋島直朝とその正室の墓。
佐賀藩初代勝茂の九男として生まれ、
父が強引に正茂の養子に送り込みますが、
正茂はこれを拒否して対立し、
最終的に正茂が出奔する事となり、
直朝が3代藩主となっています。
文武に秀いでた人物だったとされ、
藩政では治水事業で功績を挙げました。
30年の治世の後に隠居。


正統院殿前播州太守
 泰窩春大居士
(右)」、
寶善院殿寂湛淨空大姉(左)」。
4代藩主鍋島直條とその正室の墓。
3代直朝の三男として生まれ、
幼少時より聡明であったという。
父の隠居により家督を相続しますが、
藩の財政は困窮しており、
宗家より度々援助を受けたようです。
33年の治世の後に死去しました。


徳雲院殿前泉州太守
 大年際雄大居士
(左)」、
蓮清院殿明〇華月貞苑大姉(右)」。
5代藩主鍋島直堅とその正室の墓。
4代直條の五男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続。
22年の治世の後に死去しています。
因みに正室蓮清院の墓は、
普明寺にはありません。


天祥院殿前備州太守
 泰山際運大居士
(右)」、
定慧院殿智月耀榮大姉(左)」。
6代藩主鍋島直郷とその正室の墓。
5代直堅の長男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続しました。
凶作が続いて財政難に拍車が掛かり、
参勤交代の費用が調達できなかったという。
35年の治世の後に隠居し、
7年後に死去しています。

7代藩主鍋島直煕は、
佐賀藩7代鍋島重茂が早逝した為、
急遽佐賀藩8代藩主となりました。
従って鹿島鍋島家から除籍しており、
墓はここにはありません。


瑞巌院殿前泉州太守
 威徳良光大居士
(右)」、
悌操院殿松室淨輝大姉(左)」。
8代藩主鍋島直宜とその正室の墓。
小城藩6代鍋島直員の四男に生まれ、
7代鍋島直熙が本家を継いだ為、
急遽養子となって家督を相続しました。
31年に治世の後に隠居し、
18年後に死去しています。

続く。
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