烈婦」タグアーカイブ

下関市長府 本覚寺/菊舎とさつの墓所

本覚寺浄土宗の寺院。
創建は不明ですが元々は土肥山の麓にあり、
称念寺を称していたようですが、
文亀元年(1501)に現在地に移転し、
明暦3年(1657)に本覚寺と改称しました。

長府の街道筋は乃木さん通りと呼ばれ、
商店の並ぶ商店街となっていますが、
中之町から金屋町の通り沿い西側には、… 続きを読む

北海道松前郡 松前護國神社

青森での出張中に現地休暇があったので、
松前に行ってみようと計画。
雪国は不慣れだったもので行く前に、
松前観光協会にメールして、
色々と訪ねていました。
計画は始発の新幹線木古内駅まで行き、
そこからバスに乗って9時台に到着。
色々と史跡観光した後に、
午後1時前のバスで木古内に帰って、
新幹線で… 続きを読む

下関市豊北町 滝部八幡宮

滝部八幡宮は滝部の氏神として敬われ、
阿川毛利家の庇護を受けていました。
ここに吉田松陰が書いた碑文による、
烈婦登波の碑が建っています。

大鳥居の横の大きな石碑。

中山太一顕彰碑」。
中山太一は滝部出身の実業家で、
化粧品製造の中山太陽堂創業者。
㈱クラブコスメチックスの前身です。
故郷の滝部に多額の寄付を行った人物。

八幡宮の隣にはノスタルジックな建物が。… 続きを読む

小倉城下の烈婦 玉枝

小倉城自焼させ田川に退いた小倉藩
長州藩兵が小倉城下に入ったのは次の日でした。

高杉晋作山縣狂介も小倉入りしますが、
白石正一郎も小倉に入っております。
白石が日記に記すところによると、
小倉城下はもぬけの殻で、
盗人の類いがうろつく程度であったらしい。

長州兵が… 続きを読む

烈婦登波と吉田松陰

江戸時代は今と違い賞賛される事柄が違います。
現代は人の役に立つ事をした人を賞賛しますが、
江戸時代では忠義を賞賛する傾向がありました。
忠臣蔵なんてその典型です。
現代でも縁起が良い夢として、
「一富士、二鷹、三なすび」と云いますが、
実はこれは有名な敵討ちにちなんだもの。

①「曾我兄弟の仇討」=富士の裾野で敵討
②「赤穂浪士の討入」=浅野家家紋がの羽根
③「伊賀越の仇討」=… 続きを読む