下関市彦島 彦島

少しの間ネタ切れ期間がある為、
彦島について少し纏めてみます。
※更新については通常どおりです。

管理人kiiの居住している彦島ですが、
面積本州含めた全ての有人島で、
99番目の大きさであるとのこと。
これに対して人口はなんと18番目で、
人工密度2231.2人/㎢という。
これは宇品島(広島県)奥武島(沖縄県)に次ぎ、
なんと3番目の密度であるという。
住んでいるとそんな人が多い感じはなく、
何なら昔より人が少なくなった印象。
それもその筈で僕は高校卒業後、
大阪に出て彦島から離れており、
戻って来て[人が減った]印象だったから。
その頃は4万5000人強も居たのですから、
現在2万4000人弱の彦島に対して、
少なく感じるのは仕方ないかもしれません。
とはいえ現在でも人口密度3位の彦島。
その割に殆ど知られません。
どんな場所かはかなり古い記事ですが、
彦島について語っています。
彦島について①
彦島について②



彦島」。
彦島には縄文時代より人が住んでおり、
遺跡も発見されているようです。
更に時代不明のペトログラフも発見され、
シュメール文字ではないかともされます。
古代より引島と呼ばれていたようで、
これは対岸から見て潮の満ち干きにより、
島が引かれるように見えたからという。
※諸説あり。

他の島と同様に漁民が暮らす島でしたが、
保元の乱に敗れた河野通次主従が居住し、
また源氏に京都を追われた平家が、
最後の砦と位置づけて源氏を迎え撃ち、
敗れた後はその残党が隠れ住みました。
彼らは彦島十二苗祖と呼ばれ、
現在も多くの子孫が居住しています。

彦島開拓の祖 十二苗祖墳墓」。
彦島迫町にある彦島十二苗祖の墓。
誰が誰の墓かは全くわかりませんが、
彦島を開拓した12人の墓とのこと。
下関市彦島迫町 十二苗祖墳墓
ちなみに平家最後の砦だった故に、
平清盛の墓もあったりします。
下関市彦島江の浦町 清盛塚

彦島は江戸初期には小倉藩領だったようで、
付属する船島宮本武蔵佐々木小次郎が、
決闘を行ったとして有名です。

巌流島」。
後に船島は小次郎の流派名(巌流)より、
巌流島と称されるようになりました。
ちなみに巌流島は彦島に属しますが、
渡れるのは唐戸からのみです。
※昔は彦島江の浦町より渡船があった。
下関市彦島船島 巌流島

その後に彦島は長府藩領になっており、
江戸期は福浦北前船の寄港地となって、
潮待ち風待ちの船で溢れたという。

福浦湾」。
金刀比羅宮石段途中から望む福浦湾
埋め立てられてはいますが、
奥深く入り込んだ入江は天然の良港でした。
現在は小型漁船が碇泊している程度で、
賑やかだった面影はありません。
下関市彦島福浦町 福浦
下関市彦島 福浦金刀比羅宮

幕末の攘夷戦では砲台が設置され、
海峡を通行する外国船を砲撃。

弟子待砲台跡」。
台風や潮流で破壊されてはいますが、
しっかりとした石垣が組まれていた様子。
下関市彦島弟子待町 弟子待砲台跡
ちなみに弟子待の地名の由来は、
佐々木小次郎の弟子が待った事から。

外国船を砲撃した事で諸外国が激怒し、
これが下関戦争へと発展しています。
その後の講和交渉では講和の条件として、
彦島の租借が要求されたとされ、
高杉晋作がこれを阻止したという。
※諸説あり。
四国連合艦隊の彦島租借要求

小倉戦争でも彦島の砲台は火を噴き、
長州藩の勝利に貢献。
維新後は豊浦郡彦島町として発展し、
昭和8年に下関市と合併しています。
以後は三井化学三菱重工林兼造船等、
重化学工業の工場が相次いで建設され、
その発展と共に島内の人口が爆発的に増加。
平成不況を経て人口は減り続けつつも、
彦島は現在に至っています。

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 彦島に属す小さな島。

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