長崎県」カテゴリーアーカイブ

長崎県壱岐市 朝鮮通信使迎接所跡

豊臣秀吉の2度の朝鮮出兵により、
李氏朝鮮との関係は悪化しますが、
徳川家康は朝鮮との関係改善を進め、
李氏朝鮮に通信使の派遣を打診。
慶長12年(1607)より使節が派遣され、
以後12回これが続いています。
※1回目から4回目までは国交回復交渉や、
 捕虜の返還が行われました。
 5回目より将軍就任の祝賀
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長崎県長崎市 晧臺寺/高島秋帆墓所

晧臺寺の墓域のかなり上の方に、
町年寄高島家の墓所があります。
この高島家は高島流砲術の創始者で、
幕府より重用された高島秋帆を排出。
高島家は後に断絶となりますが、
墓も門人により建立されています。
高島家の先祖は近江国高島郡出身で、
近江源氏… 続きを読む

長崎県長崎市 大音寺/松波正房墓所

在任中に死去した長崎奉行は数人いるようで、
これについて2度程記事にしています。
長崎県長崎市 皓臺寺/長崎奉行の墓
長崎県長崎市 大音寺/松平図書頭墓所

今回晧台寺横の幣振坂を登った際、
巨大な墓石を見つけたので墓碑を見ると、
長崎奉行だった松波正房のものだった為、
わざわざ遠回りして参拝いたしました。
※幣振坂からは墓域には行けません。続きを読む

長崎県長崎市 近藤昶次郎顕彰碑

眼鏡橋の近く中島川沿いに、
近藤長次郎の顕彰碑が建てられています。


近藤昶次郎顕彰碑」。
平成23年に建立された顕彰碑で、
近藤長次郎顕彰会によるもの。
碑には長次郎が身重の妻お徳に、
送った最後の句が刻まれています。
 うき雲の
 たちおほふなる
 うきよなり
 きへなハこれを
 可たみともみよ

訳:憂き雲が立ち覆うている、続きを読む

長崎県長崎市 眼鏡橋

眼鏡橋中島川に架かる石造二連アーチ橋
日本初の石造アーチ橋とされており、
水面に映しだされた姿と本体が、
眼鏡に見えた為に眼鏡橋と呼ばれました。


眼鏡橋」。
寛永11年(1634)に架橋されたもので、
興福寺2世黙子如定が建造させました。… 続きを読む

長崎県長崎市 大音寺坂

長崎市賑町にある大音寺坂の名称は、
かつて坂上に大音寺があった事に由来。
元々坂上にはミゼリコルディア本部があり、
キリシタン福祉施設となっていましたが、
後のキリシタン弾圧で破壊されたようで、
その跡地に大音寺が建立されました。
寛永15年(1638)に大音寺は移転し、
天満宮が置かれて天満坂ともよばれますが、… 続きを読む