2種類ある高杉晋作の写真のひとつ。
真ん中が晋作で、
右側は伊藤俊輔(博文)。
ではこの少年は?
山田顕義とか高島某とかいわれていますが、
この少年の名は三谷国松。
晋作に憧れて付き従うようになり、
可愛がられていたようです。
国松は萩の医家村上某の息子とされ、… 続きを読む
2種類ある高杉晋作の写真のひとつ。
真ん中が晋作で、
右側は伊藤俊輔(博文)。
ではこの少年は?
山田顕義とか高島某とかいわれていますが、
この少年の名は三谷国松。
晋作に憧れて付き従うようになり、
可愛がられていたようです。
国松は萩の医家村上某の息子とされ、… 続きを読む
宮城彦助は長州藩大組士。
和歌を得意とする文人として知られて、
文久3年に中山忠光が長州に赴いたため、
宮城はこの公卿の随従を命じられます。
文人の才を買われたのでしょう。
しかしこの中山忠光。
ただの公卿ではありませんでした。
若く狂信的な攘夷論者で、
雅な公卿ではなかったのです。
気に入らないからと失踪するわ。
真木和泉救出に久留米… 続きを読む
下関の東側海岸線は埋め立てられており、
殆ど幕末当時の状況と変わっています。
当時の海岸線は国道に沿ったあたりでした。
下関は埋め立てしか発展する余地はなく、
残念ながら当時の面影は残っていません。
当時の下関は北前船の寄港地であり、
大変な賑わいをみせた場所で、
長州藩の[馬関越荷方役所」が、
下関の南部町に設置されていました。
越荷… 続きを読む
竹崎の商人白石正一郎の小倉屋は、
酒、たばこ、米、お茶の卸や、
質屋、造酒屋も経営した豪商とされています。
しかし実際は長州藩の商いは無く、
孫藩の清末藩の御用商人だったようで、
豪商というほどでもありませんでした。
最も儲かる北前船交易には参加する事が出来ず、… 続きを読む
ちょっと前に書いた記事
晋作と西郷は会っていたのか?に対し、
郎女迷々日録 幕末東西の郎女様が、
アンサー的記事で色々調べて下さいました。
下記がその記事です。
珍大河『花燃ゆ31』と史実◆高杉は西郷と会ったか?
珍大河『花燃ゆ32』と史実◆高杉晋作伝説の虚実
郎女様も二人は会っている可能性が高いと、
結論付けられたようですが、
彼女は面白い推理をされており、
僕はこの推理に納得すると共に、
二人が会っている事を確信した次第です。
郎女様は西郷と諸隊の会合と、… 続きを読む
下関と彦島の間にある細い海峡を、
小門または小瀬戸と言います。
[小門の夜焚]という舟遊びで知られた地で、
松明を焚いた小舟を浮かべて、
その明かりに集まった魚を網で捕らえ、
舟上で料理して食べていたとのこと。
[日本外史]の著者でもある儒学者頼山陽や、
晋作が愛した南画家田能村竹田も、
[小門の夜焚]で遊んだとされています。… 続きを読む
高杉晋作と西郷隆盛は面識が無いとされ、
yafoo!知恵袋等のネットの書き込みでも、
よくそういう答えが見受けられます。
大概が会う機会があったけれども、
晋作が会わなかったというもので、
晋作は他藩の人間を信用せず、
特に西郷が嫌いだったとか・・。
でもこれは司馬遼太郎の受け売りで、
司馬の小説「世に棲む日日」において、
計画していた横浜外国公使の襲撃を、
久坂玄瑞が… 続きを読む