下関戦争」タグアーカイブ

長崎県島原市 船津/龍馬上陸の地

元治元年2月。
四国連合艦隊下関攻撃を決定した為、
外国側と交渉してこれを回避するべく、
幕府より調停役を命じられた勝海舟は、
総勢47名の大所帯で長崎に向かいます。
この一行に坂本龍馬ら勝の門弟も同行し、
龍馬は初めて長崎を訪れる事になりました。

2月14日に一行は翔鶴丸続きを読む

大分県大分市 佐賀関/海舟龍馬宿泊地

長州藩の攘夷決行に対抗する為、
四ヶ国艦隊は下関への攻撃を決定しますが、
勝海舟はこれを制止する為に長崎へ向かい、
これに坂本龍馬も同行しています。

神戸から第二長崎丸に乗り込んだ一行は、
文久4年2月15日に佐賀関に到着。
そこから陸路を長崎に向かいました。
佐賀関は熊本藩飛地で四国の玄関口であり、
当時は大変な賑わいであったとされます。
幕府の使節として上陸した勝ら一行は、… 続きを読む

下関市前田 角石陣屋跡

文久3年に起こった下関戦争は、
世界的にもニュースになった事件で、
有名な前田砲台占領の写真やスケッチが、
欧米の新聞などに掲載されています。
占領の様子を写した写真家ベアトの写真は、
歴史教科書幕末書籍に掲載されており、
砲撃戦が描かれた絵も多く残っていますが、
従軍画家のワーグマン続きを読む

福岡県北九州市 仏水兵戦死者記念碑

壇ノ浦の対岸である門司和布刈は、
下関側に突き出すような形状になっており、
関門海峡が最も狭くなっている場所です。


早鞆の瀬戸周辺(門司側が和布刈)
最も狭くなっている場所ですので、
橋やトンネルが建設されている訳ですが、
それ以前から交通や戦略の要所でした。

源平頃には門司城が築城されており、
本州側への睨みを利かせています。
戦国時代には… 続きを読む

下関市南部町 本陣佐甲邸跡

赤間関宿には本陣が2つ定められ、
それぞれが西の本陣(佐甲家)
東の本陣(伊東家)と呼ばれていました。


本陣佐甲邸跡」。
西の本陣佐甲家の屋敷跡。
残念ながら跡地はマンションとなっており、
跡碑さえ設置されていません。
他の宿場町の本陣、脇本陣などの様に、
格式に違いがあるわけではなく、
東の本陣伊藤家と同格であったようです。… 続きを読む

下関市前田 前田台場跡

■2020/02/01 写真差し替え及び記事修正。


長州藩下関前田台場跡」。
前田台場攘夷戦に備えて築かれた台場で、
文久3年5月に海峡を渡る外国船を砲撃し、
6月に米仏海軍報復攻撃を受けています。


ベアトによる前田台場占領時の写真
6月1日の米艦… 続きを読む

下関市彦島 巌流島

巌流島に行きました。
地元では巌流島について、
何もないよ」と誰もが言います。
僕も小学生の頃に行ったことがありますが、
確かに何も無いただの小島で、
当時は釣人以外は行くことが無い島でした。
まあそれが大河ドラマ「武蔵」の影響で、
観光スポットのひとつとなります。
ですが何もないのは変わらないようで、
地元の人間は釣りをする人か、
何らかイベントがある場合以外は、
巌流島には行くことがありません。
親や兄弟、友達に、
巌流島にでも行こうかな?続きを読む