幕長戦争」タグアーカイブ

石州戦争での軍夫の逃亡

幕長戦争石州口の戦い(石州戦争)は、
大村益次郎が直接指揮を執り、
長州軍を勝利に導いたとされています。

その通りではあるのですが、
それだけが勝利の要因ではなく、
兵装の違い士気の違い戦術の違い等、
色々な要素が重なった結果の勝利でした。
その勝利の要因のひとつとして、
石見の民衆の動向が挙げられており、… 続きを読む

大島戦争(大島口の戦い)③

続き。
//③

6月16日。夜明け頃。
野営していた浦滋之助配下の秋良政一郎は、
久賀沖に停泊しているはずの幕府艦隊が、
いつの間にかいなくなっているのを発見。
秋良はこれを攻勢の好機と見て、
本陣の西蓮寺続きを読む

大島戦争(大島口の戦い)②

続き。
/②/

大島攻撃は山口政事堂へ伝えられますが、
大島より山口までは約1日の期間を要し、
6月7日長崎丸の攻撃の一報は、
山口政事堂に翌8日にもたらされました。
これを聞いた山口政事堂の藩政府は、
長崎丸の砲撃を威力偵察と判断して、
動揺せずに待敵の姿勢を崩さないように
と大島に通達。… 続きを読む

大島戦争(大島口の戦い)①

①//

大島戦争幕長戦争の初戦にして、
長州藩が領内に侵略された唯一の戦い。

慶応2年6月5日付で長州藩への攻撃命令が、
広島に滞陣していた幕府軍に出されます。
長州藩領周防大島は東側の海から攻める際、
本土を守る壁のようにある大きな島。
幕府軍はまずここを占領して、… 続きを読む

山口県防府市 勝坂砲台跡

三田尻幕府によって攻め落とされた場合、
萩往還を上って山口は目と鼻の先となります。
もちろん三田尻は軍港ですので、
何が何でも死守せねばならない拠点ですが、
それだけに狙われる可能性がありました。

そこで防府と山口の境に砲台を設置し、
防御の勝坂砲台が建設されます。


防府市下右田周辺(勝坂砲台跡の場所)
三田尻から山口に侵攻する為には、
右田ヶ岳続きを読む

山口県山口市 山田宇右衛門墓所

山田宇右衛門は正義派政権の政務首座を務め、
桂小五郎と共に幕府に対抗した人物。
吉田大助山鹿流兵学を学び、
大助の養子吉田松陰の後見役となります。
松陰に多大な影響を与えたともされ、
世界事情に通じた山田亦介も紹介しており、
尊皇攘夷思想は持っていたようですが、
官僚として優秀な人物だったようで、
郡奉行や代官所を勤め藩政に関わり、… 続きを読む

幕府による長州破壊工作

長州は忍者大国(記事はこちら)という妄想。
どう考えてもあり得ない話なのですが、
意外と信じている人達もいるようです。
でも実はどちらかというと長州藩の方が、
間者の破壊活動に悩まされていました。

第二次長州征伐の迫る慶応2年3月18日。
山口天花村合薬製錬所が爆発炎上しました。
従事する16名が犠牲になりますが、
その爆発原因はわかっていません。

また同年4月10日。
長府藩の下石原村弾薬製造場が火災で全焼。… 続きを読む