南洲墓地にある庄内士族の墓。
薩摩藩江戸藩邸を焼き討ちしたり、
戊辰戦争で新政府軍を苦しめた庄内藩ですが、
敗戦後は比較的軽い処分となりました。
これは西郷隆盛の意向によるものとして、
以後の庄内では西郷を敬愛する者が多く、
西郷が下野して… 続きを読む
鹿児島県鹿児島市 南洲墓地/庄内士族の墓
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南洲墓地にある庄内士族の墓。
薩摩藩江戸藩邸を焼き討ちしたり、
戊辰戦争で新政府軍を苦しめた庄内藩ですが、
敗戦後は比較的軽い処分となりました。
これは西郷隆盛の意向によるものとして、
以後の庄内では西郷を敬愛する者が多く、
西郷が下野して… 続きを読む
鬼玄蕃と恐れられた酒井玄蕃了恒の墓。
「故荘内藩大夫酒井君之墓」。
庄内藩第二大隊大隊長酒井玄蕃了恒の墓。
了恒は酒井吉之丞家当主酒井了明の長男で、
長沼流兵学指南の秋保政右衛門に学び、
剣術にも長けていたとされていますが、
漢詩を詠んで書を嗜んだ他、… 続きを読む
清川のはずれの県道45号線沿いに、
清河口で戦死した長州藩兵の墓があります。
「戊辰之役古戦場官軍墳墓」。
近くには[北楯大堰]という古い水路があり、
最上家家臣北楯利長の開削したものという。
右端の[赤心薫萬古]は… 続きを読む
清川の御殿林の傍に清河神社があります。
「清河神社」。
清河八郎が明治41年に正四位を贈られた際、
地元有志らによって神社建立の動きがあり、
その後の昭和8年に建立された神社。
清河八郎を祭神としています。
「回天倡始清河八郎先生」像。
鳥居の傍にある清河八郎の座像で、… 続きを読む
庄内藩の藩境には五つの関所がありましたが、
清川口の関所は最上川の往来もあることから、
川口番所とも呼ばれており、
その往来が最も多かったとされています。
「芭蕉上陸之地」。
松尾芭蕉は奥の細道で最上川を下り、
この清川で上陸して出羽三山… 続きを読む
亀ヶ崎城は庄内藩の支城。
庄内地方を領していた最上義光は、
大宝寺城、東禅寺城、尾浦城を整備し、
庄内地方の拠点としていますが、
東禅寺城近くの酒田浜に大亀… 続きを読む
「本間様には及びもないが
せめてなりたや殿様に」
庄内でそんな俗謡が歌われていたという。
本間家は佐渡の豪族の支流で、
元禄期に本間原光が新潟屋を開店。
古着、染物… 続きを読む