久住宿は豊後(肥後)街道の宿場町。
久住は熊本藩領であったようで、
藩営の御茶屋が設置されており、
熊本藩主が参勤の際に宿泊していました。
竹田市久住町周辺。緑の線が街道筋で、
青くぼかした辺りが久住宿跡。
南端より散策。
緩やかな上り坂が真っ直ぐ伸びており、
商店等が現在も営まれています。
「佐藤酒造(株)… 続きを読む
大分県竹田市 久住宿跡
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久住宿は豊後(肥後)街道の宿場町。
久住は熊本藩領であったようで、
藩営の御茶屋が設置されており、
熊本藩主が参勤の際に宿泊していました。
竹田市久住町周辺。緑の線が街道筋で、
青くぼかした辺りが久住宿跡。
南端より散策。
緩やかな上り坂が真っ直ぐ伸びており、
商店等が現在も営まれています。
「佐藤酒造(株)… 続きを読む
■熊本新田藩■
熊本藩3代藩主細川綱利の弟細川利重が、
蔵米3万5000石を分与され立藩。
維新に熊本藩の高瀬町奉行所を仮藩庁とし、
高瀬藩として届けられました。
明治3年に正式に高瀬陣屋を建設しますが、
熊本県玉名市 高瀬陣屋跡… 続きを読む
松風の関は筑後国と肥後邦の国境で、
両国を結ぶ唯一の街道が通っていた場所。
※薩摩街道、豊前街道と呼ばれますが、
当ブログでは薩摩街道としています。
「松風の関跡」。
ネットでいくつか散見されるのは、
[幕府直轄の関所が置かれた]とのことですが、
色々と調べるとどうも違うみたいです。
南に南関という… 続きを読む
高瀬藩は熊本藩の支藩。
寛文6年(1666)に熊本藩3代藩主細川綱利が、
実弟細川利重に蔵米3万5000石を分与し、
熊本新田藩として立藩させています。
参勤交代を行わない定府大名だったようで、
藩主は江戸の鉄砲洲… 続きを読む
熊本士族池辺吉十郎は熊本隊を結成し、
西郷軍に参加して各地と転戦。
水俣から大口へ進軍する政府軍を抑える為、
辺見十郎太率いる雷神隊と共に、
人吉から大口へと移動しています。
明治10年5月4日。
水俣の政府軍… 続きを読む
毛利空桑は熊本藩の幕末期の儒者で、
熊本藩領鶴崎で私塾[知来館]を開設し、
文武両道と尊皇論を唱えました。
その門弟は890人以上であったとされ、
遠方からもその意見を問う人が絶えず、
吉田松陰や斉藤監物も空桑を訪ねています。
「… 続きを読む
慶長6年(1601)に熊本藩主加藤清正は、
瀬戸内海への航路確保の為に、
鶴崎を領地とすることを幕府に請願し、
豊後国大分郡、直入郡、海部郡が、
熊本藩の飛地となりました。
清正は熊本城… 続きを読む