相馬大作事件は盛岡藩士の下斗米秀之進が、
弘前藩主を暗殺しようとした事件。
文政4年(1821)に発生したこの事件は、
下斗米が相馬大作と名を変えて潜伏した為、
相馬大作事件と呼ばれました。
吉田松陰はこの事件に強い影響を受けており、
事件から30年後の東北遊学の際に、
その暗殺未遂の現場を訪れて、
案内人に暗殺が成功したかを訪ねています。
※ただ松陰は場所を勘違いしており、… 続きを読む
相馬大作事件は盛岡藩士の下斗米秀之進が、
弘前藩主を暗殺しようとした事件。
文政4年(1821)に発生したこの事件は、
下斗米が相馬大作と名を変えて潜伏した為、
相馬大作事件と呼ばれました。
吉田松陰はこの事件に強い影響を受けており、
事件から30年後の東北遊学の際に、
その暗殺未遂の現場を訪れて、
案内人に暗殺が成功したかを訪ねています。
※ただ松陰は場所を勘違いしており、… 続きを読む
野辺地湊は北前船の寄港地として栄え、
大豆や銅などの産物を積み出す船や、
大坂からの塩や生地、
日用品などを降ろす船で賑わました。
青森県北東部周辺。赤丸が野辺地湊。
陸奥湾の最奥部にあたります。
「浜町の常夜燈… 続きを読む
盛岡藩領内に侵攻した弘前藩、黒石藩兵は、
馬門村に進入すると次々に放火を開始。
民家64戸と遍照寺が焼失してしまいます。
この馬門にあった番所も焼失しており、
虚を突かれた役人及び守備兵は、
野辺地方面に逃走しました。
「馬門御番所跡」。… 続きを読む
藩境塚より1km程南西に進むと馬門の集落。
この集落に馬門宿がありました。
北側には盛岡藩と黒石藩の藩境があり、
南部家と津軽家は仲が悪かった為に、
厳しい検問があったようです。
「馬門宿跡」。
ごく普通の集落といった感じで、
古い家屋もありません。
「馬門御番所跡」。
藩境を越えるにはここで手形を見せて、
先程の藩境塚を通る必要があります。
厳しく取り締まられてとされますが、
吉田松陰… 続きを読む
盛岡藩南部家は鎌倉時代から続く名門で、
戦国時代には現在の岩手県中北部と、
青森県全域を掌握していました。
しかしその一族である大浦為信は、
南部家に反旗を翻して独立を図り、
中央の豊臣政権に対する工作が功を奏して、
津軽氏を名乗って大名として独立。
幕府… 続きを読む