長州藩は直轄地を宰判という行政区に分け、
代官を置いて行政にあたらせていました。
宰判には勘場と呼ばれた役所が設けられ、
租税徴収、治安維持、
裁判等が行われています。
吉田は山陽道と赤間関街道が交差し、
藩直轄地の最西に位置していた為、
役所として吉田宰判勘場… 続きを読む
下関市吉田 吉田宰判勘場跡/御茶屋跡
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長州藩は直轄地を宰判という行政区に分け、
代官を置いて行政にあたらせていました。
宰判には勘場と呼ばれた役所が設けられ、
租税徴収、治安維持、
裁判等が行われています。
吉田は山陽道と赤間関街道が交差し、
藩直轄地の最西に位置していた為、
役所として吉田宰判勘場… 続きを読む
苦の坂は西国街道の難所のひとつ。
小方町小方周辺。緑の線が街道筋。
木野側に四町九間(4513m)の急坂があり、
防州側に対する防備に適していました
慶応2年6月13日。
長州征討軍先鋒の彦根藩兵と与板藩兵は、
岩国領との国境である大竹村に布陣。… 続きを読む
富海は長州藩領の小さな漁村でしたが、
船便での上方の玄関となっており、
また西国街道の宿場町となって栄え、
多くの人々が行き交いました。
青でぼかした辺りが富海宿跡。
緑の線が西国街道の街道筋。
ここが上方への玄関と云われる所以は、
富海が飛船と呼ばれる客船の拠点で、
ここからの海路が一番早かったから。
長州志士はここから上方を目指し、
他国からの志士もここに上陸しています。… 続きを読む
赤間関宿には本陣が2つ定められ、
それぞれが西の本陣(佐甲家)、
東の本陣(伊東家)と呼ばれていました。
「本陣佐甲邸跡」。
西の本陣佐甲家の屋敷跡。
残念ながら跡地はマンションとなっており、
跡碑さえ設置されていません。
他の宿場町の本陣、脇本陣などの様に、
格式に違いがあるわけではなく、
東の本陣伊藤家と同格であったようです。… 続きを読む