瀬戸内海を航行する船を取り締まる番所が、
平安時代頃より長門国、周防国に設置され、
下関、中関、上関 と呼ばれました。
上関海峡は極端に狭い海峡で、
上関と北側の室津との間わずか170m。
流れが速い為に潮待ちしなければならず、
北前船の寄港地として繁栄します。
この重要な港を長州藩は… 続きを読む
瀬戸内海を航行する船を取り締まる番所が、
平安時代頃より長門国、周防国に設置され、
下関、中関、上関 と呼ばれました。
上関海峡は極端に狭い海峡で、
上関と北側の室津との間わずか170m。
流れが速い為に潮待ちしなければならず、
北前船の寄港地として繁栄します。
この重要な港を長州藩は… 続きを読む
光峨眉山護国神社を越え象鼻ケ岬の先端へ。
室積台場跡に向かいます。
光市室積周辺(室積台場跡の場所)
赤丸の位置が台場跡です。
湾を抱え込むように伸びる象鼻ケ岬。
その景観から[天橋立]になぞらえ、
[周防橋立]とも称されています。
「室積台場(通称女台場)」。… 続きを読む
出張で山口県光市に行きました。
仕事が終わり夕方にホテルに行く途中、
室積の光峨眉山護国神社に寄ってみます。
光市室積周辺(光峨眉山護国神社の場所)
象鼻ケ岬という文字通り象の鼻のような岬。
光中学校を越えると駐車場があり、
そこからは歩いて行かなければなりません。
遊歩道には八十八体の石仏が、
等間隔に置かれています。
遊歩道の途中に分かれ道があり、
橋を渡ると鳥居があって、
その先が参道となっています。… 続きを読む
山口市鋳銭司は、大村益次郎の故郷。
名前のとおり平安時代後期まで、
周防国の銭貨を鋳造していた場所でした。
大村はそこで村医の村田孝益の長男として生まれ、
幼名は宗太郎といいました。
大村の誕生地は、四辻駅近くの内田歯科医院の隣。… 続きを読む
徳山藩は長州藩の支藩で、
現在の周南市徳山に藩庁を置いていました。
仕事関係のセミナーが周南市であったので、
藩庁跡に寄ってきました。
徳山藩は毛利輝元の次男毛利就隆が、
藩より3万石を分与されて立藩した支藩で、
はじめ下松(山口県下松市)に陣屋を置き、
その後に徳山に藩庁を移しています。
徳山陣屋は現在周南市文化会館となっています。
「… 続きを読む
小郡から椹野川対岸の元橋という場所に、
東津墓苑という墓地があります。
山の斜面に墓石が並ぶ墓地なのですが、
そこに鋭武隊士の墓がありました。
その墓の主は今井六郎といい、
元々は東津(椹野川の東側)の農民。
諸隊のひとつ鋭武隊に所属して、
戊辰戦争に従軍しています。
明治2年に諸隊が解散・再編されると、
職を失った諸隊士が反乱を起こし、
山口藩議事館… 続きを読む
玉木彦助は玉木文之進の嗣子で、
吉田松陰の従弟にあたります。
従兄の松陰とは仲が良かったらしく、
元服時に士規七則を松陰に贈られました。
世子毛利元徳の近従を務めるなど、
父や従兄に似て優秀であったようで、
松陰もその将来を期待していたらしい。
元治元年、太田市之進らの御楯隊に入隊。… 続きを読む