中山神社境内にある中山忠光の墓所。
中山忠光は北浦での逃避行の後、
田耕にある長瀬の渓谷で殺害され、
綾羅木に運ばれて埋められました。
埋葬地には後に墓碑が建てられ、
その霊を慰める為に中山神社が建立。
現在に至っています。
「藤原忠光卿 神靈」。… 続きを読む
下関市綾羅木 中山神社/中山忠光墓所
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中山神社境内にある中山忠光の墓所。
中山忠光は北浦での逃避行の後、
田耕にある長瀬の渓谷で殺害され、
綾羅木に運ばれて埋められました。
埋葬地には後に墓碑が建てられ、
その霊を慰める為に中山神社が建立。
現在に至っています。
「藤原忠光卿 神靈」。… 続きを読む
光明寺は延徳年間(1489-1492)に、
真宗本願寺派8世蓮如上人の弟子釈正善が、
西市に御堂を建立した事に始まるとされ、
その後は内日、幡生へと移転して、
享保17年(1732)に現在地に移転したという。
「光明寺」。
大東亜戦争… 続きを読む
白石正一郎日記には文久3年4月27日昼。
久坂玄瑞ら30人余の志士がやって来て、
竹崎の長泉寺に宿泊したいというので、
取り計らったと記されてます。
志士達は5月4日まで長泉寺に宿泊し、
その後に細江の光明寺へ転陣しました。
この連中が光明寺党です。… 続きを読む
萩市の市街地のはずれ、
椿地区の山の斜面に立つ光福寺。
ここに下関で暗殺された長崎の砲術家、
中島名左衛門の墓があります。
中島は長州藩から砲術教授として招かれ、
藩主世子毛利定広と共に下関に赴き、
外国船打ち払い後の砲台巡視を行いました。
竹崎の白石正一郎邸で戦術会議が行われ、
長府藩主毛利元周、総奉行の毛利宣次郎、… 続きを読む